あらゆる古代文明は、「上」にある空と、「下」にある大地が、世界を形づくっていると考えていた。大地の下には、大地が落下しないよう、また別の大地があるに違いない。あるいは、アジアの神話が伝えるように象に乗った大きな亀が大地を支えているか、はたまた、聖書が語っているように大地を支える巨大な柱が立ちならんでいるのだろう。
エジプト、中国、マヤ、インド、サブサハラアフリカ、旧約聖書の民であるヘブライ人、ネイティブアメリカン、バビロン王朝など、今日まで痕跡を残している古代の社会はことごとく、こうした世界認識を共有していた。
ただし、ひとつだけ例外がある。古代ギリシア文明だ。古典古代において既に、ギリシア人にとって大地とは、落下せずに宙に浮かぶ岩山のことだった。大地が虚空に浮かんでいること、空が足の下にも広がっていることを、ギリシア人がそんなにも早い時代に把握できたのはなぜだろう? 誰が、どのようにして、それを理解したのだろうか?
世界を知るためのこの巨大な一歩を踏み出した人物とは、いまから二十六世紀前、現在のトルコ沿岸に存在した都市国家ミレトスで生を送ったとされる、アナクシマンドロスである。
…前置きが長くなったが、今回紹介するのは、またまたカルロ・ロヴェッリの著書。
いわずと知れた(?)ループ量子重力理論の第一人者で、その文学的な表現と哲学的な考察で多くの話題作を生み出しているカルロ・ロヴェッリが綴る、科学的思考の源流と知の探究を説いた驚嘆の書だ。
なお、他のカルロ・ロヴェッリ著作については下記を参考されたし。
本書では、アナクシマンドロスの思想を第一テーマ、科学的思考の本質を第二テーマ、そして「科学的思考以前の知」と科学的思考の関係を第三のテーマとして論じている。
個人的に感銘を受けた本書のポイントを2つ挙げるとすれば、
① 科学を「予想の技術」に還元することは、科学と「科学技術の適用」の混同である
② すでに最終的な真理に到達したと信じることは、科学ではない
さてさて、それぞれボリューミーだが、これらを解説していこう。
「科学 = 検証可能な予想」ではない
私たちが心安らかに科学を信用できるのは、その基礎に「確かさ」があるからだ。 例えば、科学は肺炎に罹った患者にたいし、なにも手を打たなければ死ぬ可能性があること、ペニシリンによって生存確率がかなりの程度あがるということを教えてくれる。この知を疑う理由はない。 回復の可能性が、専門的に確証された誤差の範囲内で高まることは、確かさをともなう科学的予想である。 したがって、特定の有効範囲・所定の誤差範囲のもと、優れた予想を提供できるか否かが、ある理論の値打ちを判断する際の決め手となる。 …というより、理論の信頼性・有益性はもっぱら予想を提供する能力にあり、残りの要素は取るに足らないお荷物でしかない。
…などというと思ったか(笑)
長々と前振りをしたが、これが今日における一部の科学哲学がとっている立場である。
理屈は通っているかもしれないが、納得のいかない部分もある。
この立場をとる限り、次のような疑問が解決されずに残ってしまうからだ。
世界は近代にニュートンが記述したようにできているのか、現代にアインシュタインが記述したようにできているのか、あるいはそのどちらでもないのか?
世界の成り立ちについて、私たちはなにかを知っているのか、なにも知らないのか?
速度・質量・運動量など、なんらかの物理量の近似値を求めるのにどの方程式が適しているかを判断するのが科学であるというのなら、科学はもはや私たちが世界について理解する助けとはならないだろう。このような視点を維持するかぎり、科学的な知のもとで世界を把握する試みは失敗に終わらざるをえない。
科学を「検証可能な予想」に還元してしまっては、科学の営みや実際に科学が辿ってきた発展の道のりを正当に評価することはできなくなる。
私たちは日々、科学をどのように活用しているのか?
そもそも、私たちはなぜ科学に興味を引かれるのか?
こうした問いかけにたいする答えが、なにもかもあやふやになってしまうのである。
科学的な予想は少なくとも2つの理由から重要な意味をもつ。 ひとつは、科学技術の適応を可能にするからであり、もうひとつは、実証と照合のための主要な手段だからだ。 しかし、科学を「予想の技術」に還元することは、「科学」と「科学技術の適用」の混同である。それはまた、実証と照合のための特定の手段を、科学そのものと取り違えた態度でもある。
科学は量的な予測には還元されない。計算手法にも、試験記録にも、仮説演繹法にも。
これらは科学の土台を支える、きわめて有益な「道具」である。それは、理論の明晰さを保証する要素であり、間違いを避けるための方法であり、誤った前提を明るみに出すための技術である。だが、それはあくまでも科学という営みを助ける道具でしかない。
いくら有益だからといって、道具それ自体に知的活動の本質があるわけではないのだ。
「不確かさ」の礼賛
偉大な科学哲学者カール・ポパーの洞察の中心にあるのは、科学とは検証可能な命題の総体ではないという考えである。 科学を構築している諸理論の複合体にたいしては、せいぜいのところ、包括的な反証が可能であるに過ぎない。 ポパーの考える科学的な知は、実証主義が思い描くのとは異なり、検証によって直接的に真偽が確認できるようなものではない。むしろ、その反対である。 科学の知は原則として、経験的な観察によって反駁されうる理論的な構築物の所産である。ある理論が新しい予想をもたらし、その正しさが確認された場合、または、現実によって一度も反証されなかった場合、私たちはその科学理論を有効とみなすことができる。 これは「その後もけっして矛盾が露わになることはない」という意味ではない。どこかの時点で矛盾が露呈すれば、科学者はより優れた理論の探究を始める。 したがって、科学の知とはその本質からして、暫定的で、発展途上の性格を有している。批判を抜きにして、科学の知が成長することはない。 獲得したと思っていた知の問い直しこそ、科学にとってのなによりの養分である。
それでは、前項の問いに立ち返ろう。
つねに変化し続けるというのなら、なぜ科学の知を信頼することができるのか?
私たちは近い将来、ニュートンの考えともアインシュタインの教えとも違った仕方で世界について考えることになるというなら、世界に関する現行の科学的記述をどうして真剣に受けとめられるか?
答えは単純だ。
私たちが科学を信じられるのは、ニュートンやアインシュタインの世界記述が歴史のそれぞれの時点において、私たちがもっている最良の世界記述だったからである。
改良の余地があるということは、「世界について理解し思索するための優れた道具である」という事実をなんら損なうものではない。「もっとよく切れるナイフがあるかもしれない」と考えて手元にある有用なナイフを捨てる人間はいないだろう。
つまり、科学は「発展途上だから信じられない」のではなく、「発展途上だからこそ科学は信頼に値する」のである。
科学が提供するのはかならずしも決定的な解答ではない。むしろ、科学という営みの本質からして、それは「今日における最良の解答」と呼ぶべきだ。
そして、最良の解答を提供できるのはなぜかといえば、提示する答えを「確固たる真理」とみなさず、「学び」と「再考」にたいしてつねに開かれた姿勢で向き合っているからである。
知の秘密は学びにたいして開かれている。 すでに最終的な真理に到達したと信じることは、科学ではない。 科学の信頼性は、確かさのもとで休もうとはしない。 むしろ、確かさの根本的な欠如・積極的な批判の受容によって活力を得るのだ。
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ここで紹介したのはおすすめ書籍で説かれた主張のほんの一部である。
最後に、本書を締めくくる一説を紹介して、この記事を終えよう。
アナクシマンドロスは世界の「読み直し」の道を指し示し、新たな冒険の端緒を開いた。私たちはこの冒険に恐怖を覚え、それでいて魅了される。 なぜならこの冒険は、自らの無知を認め、過ちを引き受けるように課してくるから。知の不確かさを受け入れることは、知へ至る本道であるばかりでなく、より誠実で、より美しい選択でもある。 私たちの知は、地球のように、虚空に宙づりになっている。足場がないこと、かりそめであることは、生から意味を奪うのではなく、生によりいっそうの価値を与えてくれる。 この冒険がどこへ行きつくのか、私たちに知るすべはない。 だが、慣習にもとづく知の批判的な再検討、あらゆる強固な信念に対する抵抗の可能性、世界の新しい見方を探索し、より有効な見方を創造する能力といった観点から眺めるなら、科学的な思想とは、文明史のゆっくりとした発展を記した書物の壮大な一章にほかならない。 この章を書き起こしたのはアナクシマンドロスであり、私たちは今もなお、その物語のなかを生きている。 これから先どこへ行くのか、見たい、知りたいという思いに焦がれながら。
もっと見たい、知りたい(笑)と思ったら、本書を一読して、科学を巡る冒険に出かけよう。
目指せ!!書物の記し手!!これぞ賢者への道程!!
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