前記事で昨今話題のエネルギー問題について、その概要を紹介した。
エネルギー問題について知っておきたいこと 概論
ほとんどの人々に当てはまる問題は、人々が無知だということではなく、知っていると思っていることの多くが事実と異なって...
では、いよいよブログ主が主張したい各論に入ろうではないか!!
今回語るのはエネルギーを巡る誤解と思惑について。
(…こう書くとなんだか怪しげな「陰謀論」チックだなぁ(笑))
↓参考書籍。特に一冊目はオススメなので、是非ご一読を。
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また、このシリーズに一貫する注意事項として、記事作成時点での情報であるため、直近で大きな技術的なブレークスルーがあってもフォローできていないので悪しからず。
では早速、エネルギーを巡る誤解と思惑のトピックを3つ挙げよう。
ずばり、「原子力」・「電池」・「代替エネルギー」である。
さてさて炎上まっしぐらの話題だが、これらを簡単に説明していこう(笑)
原子力 × 原子爆弾にはなりません × 核融合炉はまだまだ先の話
[原子炉の爆発についての誤解] 原子力発電所が原子爆弾のように爆発することは、ありえない。 それはいかなる状況下でも、たとえ核物理学の博士号をもつテロリストが原子炉を完全に制御下に置いたとしても、不可能である。 というのは、原子力発電所で使っているのが「低濃縮ウラン」であり、核兵器をつくるために必要な「高濃縮ウラン」とは特性が異なるからだ。 詳細は割愛するが、核分裂時に中性子発生の連鎖反応が暴走を始めることを「反応事故」という。エネルギーは増大するが、中性子の動きがひじょうに遅いので、爆発もゆっくりと起きる。 エネルギー密度がTNT火薬レベルに達すると原子炉は爆発し、連鎖反応はそこで完全に停止する。このときに放出されるエネルギーはTNTレベルになる。 つまり、原子爆弾が放出するエネルギーの2000万分の1程度なのだ。 1986年のチェルノブイリ原発ではこの反応事故によるダイナマイト様の爆発が、2011年の福島原発では水素ガスの爆発が建屋を吹き飛ばした。 爆発による被害はあくまでそれだけである。 その後に起きた様々な惨事の原因は、爆発ではなく、あくまで放出された大量の放射線細塵なのだ。
[コストについての誤解] 原子炉はひじょうに高額だが、これは原子力発電所で電気を生産するコストが高いということではない。 原子力発電所の建設には大きなコスト(初期投資コスト)がかかるが、燃料費やメンテナンス費用はひじょうに安価である。 建設のために受けた投資を完済すれば、(現在の発電方式の中で)もっとも安い料金で電力を供給できる。
[中規模な発電所や小型モジュラー原子炉についての誤解] 新しい中規模原子力発電所では、小型モジュラー原子炉の導入により、初期投資が大幅に改善され、政府からの借入助成の必要性も少なくなった。 また、かって惨事を引き起こしたような事故の危険性は、冷却システム・高速中性子利用・地中埋蔵方式・規模などにより本質的に改良され、安全性も改善された。
[ウラニウムの枯渇についての誤解] 燃料用のウラニウムを使い果たす心配は当面ない。 経済的に回収可能なウラニウムは、(現行の使用率なら)今後900年間は持つくらい十分な量がある。 安いウラニウムは無くなりつつあるが、1kW時の電力生産に必要なウラン鉱のコストは約0.2セント(≒0.3円)である。 仮にこの価格が高騰したとしても、ウラニウムは発電コストのごく一部を占めるにすぎない。
[核廃棄物貯蔵についての誤解と思惑] 核廃棄物の貯蔵は、技術的に難しい問題ではない。 既に解決済みである。 核廃棄物に関して問題となるのは、公共認識と政治的駆け引きである。 政治家のなかには、原子力に関するものは何でも社会不安を煽る材料として利用する者がいるので、状況はよくならない。 放射能のほとんどは半減期のごく短い原子のものであり、そうした原子はすぐに無くなるので、放射能のレベルは急速に低下する。 したがって、そもそも地中にウラニウムが埋まっていたときと同じ放射能レベル以下に戻すことはそれほど難しいことではない。 (忘れてはならないが、原子力発電をしようがしまいが、自然界には天然のウランや宇宙線由来のトリチウムやK40などが存在するのだ。これらの元来の放射能密度より低い状態で埋蔵なり海洋放出することに何の問題があるのか、個人的には甚だ疑問である。) どうして人々は核廃棄物の問題をそんなに心配するのか? 理由としては主に3つある。 第一に、ほとんどの人は放射能を未知の目に見えない脅威と受け止めているから。火事や自動車事故や戦争などのなじみのある脅威以上に強い恐怖感を抱いている。 第二に、原発事故で放出される線量よりもはるかに高いレベルの自然放射能に人々は囲まれて生活していることを認識していない。 最後に、たんに言葉から受ける印象の悪さもあるだろう。なにせ「廃棄物」、つまり「ゴミ」だ。 まとめると、核廃棄物の問題は技術的に困難なことではない。 過剰に煽られた社会不安のために、核廃棄物に対する制約は現実の脅威をはるかに超えたものとなり、結果として原子力の開発・競争力を弱める結果となっている。
[原子力開発の急発展についての思惑] 特定の国が新しい原子力発電所を開発しようとすまいと、世界では原子力開発が続いている。 中国やフランス、さらには現在自国の原子力施設の多くを停止している日本までもが、他国に売る原子炉(小型モジュラー原子炉)を製造したいと考えている。 世界には、原子力が大きなメリットを発揮できる場所が数多くある。 モジュラー原子炉の管理には大した苦労はいらない。 モジュラー原子炉のなかには、地下に埋設したまま燃料交換なしで30年間稼働できるように設計されているものもあるくらいだ。
[核融合炉についての誤解] 核融合は未来のエネルギー源だが、 「いつまでたっても未来のエネルギー源のままだ。」 …と冗談でよく言われる。 もちろん、核融合を研究している科学者や技術者はこの冗談が大嫌いだ。 彼らにとっては笑いごとではないのである。 残念なことに、この冗談には、この分野を研究してきた人たちが立てた予想があまりにも楽観的すぎたという確固たる歴史的証拠がある。 1955年にインドの核物理学者ホーミ・バーバーはある国際会議でこう語った。 「私は敢えて予言しよう。これから20年以内に、制御された方法で核融合エネルギーを解放する方法が見つかるだろう。そうなれば、世界のエネルギー問題は現実に永遠に解決されるだろう。」 この予言から、既に60年は経っている。 今でも、予想では20年後には核融合の実用化の目途が立つだろうと言われている。 この予想に現実が追いつくことは果たしてあるのだろうか? 参考文献の著者の予想では、おそらく今世紀中には可能だろうと。 核融合は、私たちが生きている間には実際に主要な商業エネルギー源になるかもしれないが、その開発にはあまりにも時間がかかり、当面のエネルギー安全保障や地球温暖化などの問題解決には役に立たないかもしれない。 なぜ、楽観論が繰り返されてきたのだろうか? 一つには、核融合は太陽のエネルギー源であり、提唱者がこの点を好んで指摘するため、自然なものであるような印象を与えるからだ。 もう一つには、既に人の力によって核融合が実現されているという点がある。 それは1953年の水爆実験である。 私たちがしなければならないのは、この核融合を制御する方法を見つけることだ。つまり、全エネルギーを一気に放出させるのではなく、ゆっくりと少しずつエネルギーを小出しにする方法を知りたいのである。 発電のための核融合制御については、多種多様なアイデアが考えられている。 そのうち注目を集めている代表的なものとして、トカマク炉, 米国国立点火施設(NIF), ビーム核融合, ミューオン核融合, 常温核融合などが挙げられる。 (詳細は参考文献を読まれたし。)
電池 × エネルギー量は僅か × 燃料電池は技術力PR
[電池のエネルギー貯蔵量と技術進歩についての誤解] 例えば、自動車用鉛酸バッテリーに充電してエネルギーを満たしておくと、そのエネルギーを80~90%の効率で取り出すことができる。 これは驚くほど高い効率だ。 そのため、多くの家庭用太陽電池がバックアップ用として鉛酸電池を備えており、これも価格に含まれている。 車両用バッテリー4つで総重量は約110kgで、5kW時の電力を貯蔵できる。 小さな住宅なら、これで5時間分の電力になる。 この効率は本当に素晴らしいが、では電池の何が残念な点なのだろうか? それは、電池に貯蔵できるエネルギー量そのものが、通常の燃料から得られるエネルギー量と比べてひじょうに僅かなのである。 ガソリンならば、110kgあれば1320kW時(自動車用バッテリーの263倍)に相当する熱エネルギーを支給することができる。 発電機がこのエネルギーを電気に変換する効率はわずか20%だが、それでもまだガソリンは同じ重さのバッテリーの約50倍の電力を供給することができるのだ。 ここ何年かの間に、私たちが使っている電池は目覚ましい技術向上を遂げている。 例えば、携帯電話やノートパソコンに内蔵できる極薄のリチウムポリマー電池などの登場が挙げられる。 こうした急速な進歩によって多くの人たちは、電池は目まぐるしい速さでどんどん性能が向上していくだろうと、楽観論を抱くようになった。 こうした楽観論を保証するものは、じつは何もないのだ。 電池の技術が急速に発展したように見えるが、実際には電池の市場が急速に発展したにすぎない。 ほんの20年前は約500gの電池を1万円で買いたいと思う人はいなかった。 そうした状況が、スマートフォンなどの革命的発展によって全てが変わったのだ。 10万円のノートパソコンを持っている人なら、そのパソコンをいつでも動かせるように、1万円の電池を買うことを厭わないだろう。 このように、新たな市場が登場したことによって、幅広い既知の電池の技術が商業的に開発可能になったということなのである。 この数年間の研究のほとんどは、再充電性能と安全性に関する混沌とした技術細目に取り組むために費やされた。 これは、工学上の直線的な進歩であって、指数関数的な進歩ではない。 だから、電池の性能は向上していくだろうけど、この数年間に見られたような急速な進歩はいつまでも続かないと予想される。
[水素と燃料電池についての誤解と思惑] 燃料電池には、ロマンチックなイメージがある。 これはおそらく、人々が宇宙計画の話の中で燃料電池というものの存在を初めて知ったからであろう。 燃料電池の将来的な可能性については、様々な夢のような主張(楽観主義バイアスの数々)を見聞きすることになる。 燃料電池には本当に価値があり、重要な用途もあるが、残念ながら電池や発電機に代わって主力のエネルギー源になることはないだろう。 「燃料電池」は基本的には再充電する必要のない電池だ。 充電する代わりに、エネルギーを供給する化学物質を交換する。 水素燃料電池の場合は、水素と空気を注入すると電気が発生する。 しかし、エネルギーを貯蔵するには、このプロセスを逆に作用させて、燃料を生み出すことができなくてはならない。 残念ながら、燃料電池ではこのプロセスの効率が悪く、通常25%しかないのだ。 これに対して、一般的な電池は80~90%の効率でエネルギーを供給する。 燃料電池は、あと100年もすればバッテリーに取って代わると広く言われている。 今でも既に、標準的な発電所や自動車エンジンの代わりにとかなんとか。 こうした楽観論は、正当な根拠がないのだ。 実用的であるためには、電池は効率的であるだけでなく、出力が高く、コストが手ごろで、電極が腐食や破損せず、電解質も変性しないなどの条件が必要だ。 構造は、燃料電池にとってストレスとなる温度の上昇と下降の繰り返しに耐えられるものでなければならない。 (通常の燃料電池の反応温度である1000℃に比較して)低温で機能する電池は、化学反応を促進する触媒を使って充電する必要がある。 もっとも良質の触媒は、あいにくなことに、ひじょう高価なプラチナだ。 プラチナの価格は変動するが、だいたい1gあたりで6000円ぐらいである。 ノートパソコンにも使える比較的安価な燃料電池の場合でも数万円かかる。 宇宙船の中で使う場合や戦場の兵士支援などの用途では、高いコストも問題にはならないが、それ以外では他のエネルギー源と競争するには厳しい制約がある。 燃料電池には計り知れない潜在的利益がある。 では、どうしてもっと広く利用されていないのか? その答えは、上述のように、ずばりコストだ。 その価格の高さから、プラチナの代用品を見つけるための大変な研究努力が続けられている。 だが、移動可能な(気候の変化・起伏・加速などに耐えられる)プラチナ代用の燃料電池をつくるのは極めて困難であり、今後10~20年は自動車用燃料電池が実用化される可能性はひじょうに低いだろう。 現在、販売されている水素燃料電池自動車には高価なプラチナが必要であり、商業的な競争力をもつことは難しい。 トヨタが水素燃料電池自動車を開発・製造しているが、これは企業イメージを上げるPRが目的としてあるのだと予想される。 商業的な競争力という観点で、テスラ・ロードスターもトヨタの水素燃料自動車も歴史に名を残すだけになるかもしれないのだ。 (電気自動車の商業的競争力の低さについては参考書籍を読まれたし。)
代替エネルギー × バイアス煉獄 × バイオ燃料は幻想
[代替エネルギーについての思惑] 代替エネルギーの分野は広く、技術的に複雑で、不確実性に満ちている。 その可能性に目を向けても、多くの人たちは関連する数値が理解できず、感情にまかせて判断しようとする。 他の人たちと違う意見を言ったりすると、あなたは無知だと思われ、怒りをぶつけられたり、軽蔑されたりするかもしれない。 エネルギー政策は、独善的な考えに支配され、宗教に変わる危険があるから、注意が必要である。 代替エネルギーという分野は、政治家や指導者にとっては、うかつに踏み込めない危険な領域なのだ。 懐疑主義バイアスに注意が必要である。 また同時に、楽観的なバイアスにも注意しなければならない。 こうした先入観を後押ししているのは、自分たちが気に入らないエネルギー源の可能性については極端に悲観的で、自分たちが気に入った解決法に対しては異常なほどに楽観的な人々だ。 どんなタイプの代替エネルギー(太陽エネルギー, 風力, 原子力…etc.)にも熱狂的に支持する人たちがいる。 そうしたエネルギーにはそれぞれ技術的な難問があるが、彼らは意に介さない。 創意あふれる自分たちなら、やればできる! …そうしたフレーズは、人をその気にさせる呪文の力があるが、テクノロジーに関しては必ずしも当てはまらない。 (他の人からみて)良くないものに楽観的な意見を表明する場合、それには「証拠がない」という反論に応える用意が必要である。
[バイオ燃料についての誤解] バイオ燃料は、激しい感情論を呼び起こすので、この問題について容易に語ることができない。 狂信的に支持している人もいれば、懐疑的な人もいるし、その中間にはあらゆる見解の人たちがいる。 それどころか、バイオ燃料の問題には互いに矛盾する様々な要素があふれている。 以下に議論を呼びそうな結論をいくつか挙げよう。 <コーンエタノールはバイオ燃料に分類すべきではない> トウモロコシから作ったエタノールを使っても、温室効果ガスの大気中への排出を減らすことにはならない。 なぜなら、生産に大量の肥料を使う上に、農業用機械を動かしたり、栽培・収穫や輸送のために石油やガソリンを使うからだ。 どう計算しても、プラスマイナスゼロにしかならない。 農地利用や穀物需要の観点から食品価格などへの影響も懸念される。 再生紙やレストランの廃油と同じように、バイオ燃料モドキとでも呼ぶべきだ。 なぜなら、化石燃料と同じように、地球温暖化防止には何の効果もないから。 ・セルロース(スイッチグラスやミスカンザスのような成長がきわめて速い植物の茎)を原料とするエタノールは、上記様々な要素の兼ね合いがプラスの試算であり、エネルギー問題を解決する重要なバイオ燃料としても期待が持てる。 <生分解性素材やリサイクルは過剰宣伝されている> プラスティックや油など炭素を含む物質は、空気のあるところで生分解すると二酸化炭素を発生する。(取るに足らない量ではあるが、狂信的に支持する人たちはこの原則を忘れないでいてほしい。) 純粋に地球温暖化の観点からみても(美観の問題はさておいても)、生分解性素材やリサイクルはよいとは言えない。 自然の景観よりも地球温暖化を心配するなら、そうした素材は地中に埋めて隔離し、当分は生分解しないでおく方がよい。 ・バイオ燃料の主要な価値は、地球温暖化の抑制ではなく、エネルギー安全保障の強化である。(その意味から、主要な競争相手はシェールガスや合成燃料やシェールオイルである。)
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ここで紹介したのはエネルギー問題についてのほんの一部である。
まだまだ紹介したい内容盛り沢山なので、乞うご期待!!
ここで一つ注意点。以前の記事でも述べたが、こうした情報はとかくバイアスがかかる。
もっと知りたいと思ったら…そう、自分で情報を精査し考えるのだ!!
決して、ただただこのブログや参考文献だけを鵜呑みにしないように!!
常に新たな視点で物事を思考していこう!!これぞ賢者への道程!!
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