先日、2022年のノーベル物理学賞の受賞者に、「量子もつれ(quantum entanglement)」という特殊な現象が起きることを理論や実験を通して示し、量子情報科学という新しい分野の開拓につながる大きな貢献をした、フランスの大学の研究者など3人が選ばれた。
量子情報科学については専門外であるため、そこまで誇らしいわけではないが、それでも「量子とともに生きる」のが信条のブログ主としては喜ばしいニュースである。
さて今回は、たまたま上述のニュースに先立って購読した、「量子もつれ」を分かりやすく解説している↓の書籍を紹介しよう。
本書著者のジザンは、1990年頃から始まった量子情報科学の勃興と発展において、その分野の理論と実験の研究グループを率いて、量子テレポーテーションの成功や量子暗号通信の実用化などで次々に画期的な成果を出してきた世界的研究者の一人である。
良書には哲学がある。本書も例外ではない。
著者は本書の中で、量子相関を理解する手段として非局所的なランダム性、すなわち、空間的に離れた領域で同期した事象が「真の偶然」により生じるという自然観を提示している。
[掟破りの前書き:本書概要] 空間を跳び越えて伝わる「非局所性」は、ニュートンやアインシュタインら多くの偉大な科学者たちが忌み嫌ったように、科学の成立には受け入れ難いものであった。 実際、仮に世界が非局所的に創られているとしたら、私たちの知り得ないはるかな遠隔地で起きたことに眼前の事象が左右されてしまう。 したがって、たとえ秩序がや法則が存在したとしても、それらを見出すことができなくなりかねない。 事象の因果的な連鎖を、空間を辿って追いかけていくことが困難になるからだ。 しかしながら、現代物理学の一柱である相対論によると、情報や物理的影響は光速を超えて伝わることはないとされ、この世界は「局所的に創られている」ものと考えられてきた。 ところが、量子物理学の世界には「量子もつれ(quantum entanglement)」によって生成される相関が存在し、それは局所的な説明ができない代物なのである。 この矛盾とも思われる状況を絶妙な均衡の下に解決するために、著者は「非局所性」を自然界の基本的性質として認め、その代わりに「真の偶然」に支配された現象を認める必要性を説くのである。 言い換えれば、非決定論の世界観を認めさえすれば、遠隔地に同期して現れる「非局所性」は決して受け入れられない奇妙な現象ではないということだ。 事実、「量子もつれ」を通信に利用できないことは情報通信禁止即則として確立されており、その意味では量子論と相対論は平和的に共存していると言える。
↑のように、本書は量子の非局所相関という現象の基礎や応用の良き解説書でありながら、新たな自然観から科学の在り方にまで踏み込む科学哲学書ともなっている。
この記事では、本書で論じられているトピックの中で、次の3つ+αを取り上げよう。
① 量子もつれの概要 ② 量子暗号の重要性 ③ 量子テレポーテーションの課題 (+α 量子もつれの未来)
ねぇアリス、量子もつれって知ってる?
本書を一貫するテーマであり、量子物理学の最も不思議な性質の一つである「量子もつれ」。
これは、遠くにある物体同士を空間を跳び越えて「もつれさせる(entangle)」性質といえる。
量子もつれは、1935年のアインシュタイン, ポドルスキー, ローゼン(その連名をとって「EPRパラドックス」と呼ばれる)やシュレディンガーの論文に端を発するが、その真価が明かされたのは1964年のベルの論文においてである。(したがって、今回のノーベル賞受賞にベル先生も含みたいところだが、残念なことに1990年に亡くなられている。)
いわゆるベルの定理がそれであり、それはこの世界…とりわけ量子もつれの現象を、私たちが抱く素朴な実在論で理解することはできないという大発見を導くものであった。
昨今のニュースで見聞きする量子コンピュータ・量子暗号・量子テレポーテーションといった最先端の応用技術は、実はすべてこの量子もつれが要となっている。
量子論において、物理的影響の局所性(ものごとの変化は空間の1点からその隣の点へと連続的に伝わること)は必ずしも成り立たない。
つまり、日常生活で常識としている局所実在性が、実は原理的に成立していないのだ。
こうした事実は遠く離れた2点の間で同時測定した結果の関係性から検証され、その根底には量子の非局所相関と呼ばれる性質がある。
身近な例で説明しよう。 2枚の同じコインを用意して、それぞれ東京とニューヨークで同時に投げる。 個々の結果は「表」か「裏」のどちらかだから、両者を合わせると「表・表」, 「表・裏」, 「裏・表」, 「裏・裏」の4つのどれかになり、それはまったくの偶然によるものだと考えられよう。 ところが、同じことを量子の世界(例えば電子には、この「表」「裏」に対応する、スピンの自由度がある)で行うと、ある状況下では、その結果は「表・表」か「裏・裏」のどちらかにしかならないのだ。 つまり、東京でコインをどのような方法で投げたとしても、その結果はニューヨークで投げたコインの結果と常に一致しているのである。 もしニューヨークでコインを投げた結果が、何らかの方法で空間を連続的に伝播して東京に伝わり、これを受けて東京で投げられたコインも同じ結果を出す(各々の役割を入れ替えてもよい)ように仕組まれているのであれば、何ら不思議はない。 しかし、そんな伝播を介する媒体の排除は可能であり、また実際に見当たらない。
実のところ、この不思議な現象は2枚のコインをまったく同時に投げたとしても確認されることであり、また結果を誰かが都合よく操作するようなことも現実にはできそうにない。
そうであれば、このコイン投げの結果は、過去のある時点で2枚のコインに生じた何らかの共通の原因によって決まっており、それが結果として「表」を生じさせるにせよ「裏」を生じさせるにせよ、コインの物理的な性質としてあらかじめ実在していたと考えるしかないだろう。
ベルの定理は、この共通原因による説明の可否を、実験的に検証できることを示すものだ。
そして驚くべきことに、量子論に現れる量子もつれは、先に述べた直接の影響伝播を含めて、この共通原因の伝播では説明できないことが、その後に行われた多くの実験によって判明したのだ。
ざっくばらんに説明したが、これが量子の非局所相関と呼ばれる性質であり、このような不思議な相関が、量子コンピュータなどの21世紀の革新的な量子情報技術を現実のものにしようとしているのである。
やぁボブ、量子暗号がなんで重要なのか教えてよ♪
では、そんな量子もつれの応用技術である量子暗号について、実装内容の詳細は参考書籍に任せて(おいコラ(笑))、その重要性を説明しよう。
私たちは、2つの物体が量子的にもつれているとき、それぞれの物体に同じ測定をすれば、その結果はいつも同じになることを見た。
一見するとこのことは、とりわけ結果が純粋な偶然によって生み出されることを考えると、取り立てて役に立つようには思えない。
しかし、暗号を作成する者にとってみれば、これら特徴全部が極めて興味深いものとなる。
実際、今日の情報化社会においては膨大な量の情報が飛び交っているが、その大部分は秘匿されなければならないものである。このため、情報は受信者に送信される前に暗号化される。暗号化された情報は、第三者には何の構造や意味も持たないノイズ列のように見える。しかし長期的な安全性のためには、暗号化の方法を定期的に変更することが重要であり、理想的には毎回新しいメッセージを送るたびに変更するのが望ましい。
このことから、どのようにして暗号鍵(メッセージを暗号化したり、暗号文を元のメッセージに戻すための鍵)を安全に取り替えるかということが問題になる。これらの鍵は、送信者と受信者のみが知り、それ以外の第三者は知ることができないものでなければならない。
いうなれば、暗号鍵を安全に配布するためには、頑丈な装甲を施した一群のタクシーを世界中に走らせなければならないという話になるが、もちろん、もっと簡単な方法でなければ実用にならない。
今日、政府や大企業の中には、極めて秘匿性の高い通信が絶対に必要な相手に暗号鍵を配布するために、実際にアタッシュケースを手首につなげて運ぶ人を派遣しているところもある。 しかし、私たち一般人にとっては、より現実的な方法が望ましい。 例えば、インターネットで買い物をするときの安全性は計算複雑性の数学的理論に基づいており、そこでは公開鍵暗号と呼ばれるものを使用している。 その基本的な考え方は、例えば2つの素数の掛け算はコンピュータを用いて簡単に計算できるが、その逆演算(素因数分解)は、その数の桁が大きくなると非常に難しくなる事実を利用するものである。 この場合、素数の積の値が与えられたとき、その値から元の2つの素因数を見出さなければならないが、それは強力なコンピュータでも長時間を要するタスクであることが知られている。
ここで細かなことは重要ではない。
肝心なのは「難しい」ということが何を意味しているかである。子どもたちにとって難しい問題というのは、クラスで最も優秀な生徒ですら解くことができない問題であろう。
実は、このことは公開鍵暗号でもまったく同じなのである。ただこの場合には、優秀なクラスメイトではなく、世界中の最も優秀な数学者ですら、ということになる。
たとえ彼らを快適な場所に集めて、その問題が解けた暁には高額の報酬を出ることを約束したとしても、彼らには解くことができないような問題を「難しい」というのである。
問題を誰も解くことができなければ、それは真に難しいことを意味する。しかし、「難しい」ことは「不可能である」ことを意味するわけではない。
数学の歴史には、何年も、ときには何世紀にもわたって世界最高の数学者たちを悩ませた問題が、突然ある天才によって解かれるということがよくある。
したがって、いつの日か、もしかすると明日にでも、誰か才能ある頭脳の持ち主が、積の値に隠された2つの素因数を簡単に見つけられる方法を発見するかもしれない。数学というものは、ひとたび解法がわかってしまえば、それを再現して利用ことは決して難しくない。
そうなってしまったら、現代社会のすべての電子貨幣は瞬時にその価値を失ってしまうだろう。クレジットカードは使えなくなり、オンラインでのビジネスはできなくなり、そして銀行間の資金調達もできなくなる。それはもう大惨事だ。
加えて、もしある組織が公開鍵を用いて暗号化された通信文を蒐集して保存していたとすれば、素因数分解が高速にできることになった途端に、何年~何十年にもわたって送信された機密文書が解読されてしまう。だから、もしあなたが何十年も秘密を保持したいデータを持っているならば、今すぐにでも公開鍵を使用することを止めた方がよい。
そういった理由から、純粋にランダムでありながらも、2つの測定結果が同じになるということが重要なのだ。受信者と送信者が量子もつれを共有していれば、彼らはいつでもその測定結果から暗号鍵の列を直ちに作ることができる。そして、量子複製不可能定理(詳細は書籍を読まれたし)のおかげで、その鍵は決して第三者にわたらないことが保証される。
少なくとも、理屈の上ではただそれだけのことなのである。
よぅチャーリー、おまえを量子テレポーテーションの刑に処す!
続いて、量子もつれの応用技術である量子テレポーテーションについて、こちらも実装内容の詳細は参考書籍に丸投げして(そろそろ怒られそうだ(笑))、その課題点を説明しよう
さて、あなたには量子テレポーテーションの装置に乗り込む覚悟はあるだろうか?
もし私なら、これから述べる2つの理由から、そうするには極めて慎重になるだろう。
まず第一の理由は、これまでに行われてきたいくつかの実験は、量子テレポーテーションの原理的な可能性を実証したに過ぎないことである。
もちろんそれ自体は素晴らしいことだ!
だがその実証には、元の物体が失われないという稀なケースを選ぶ必要があった。実際、これらの多くの実験では光子が用いられており、ちょうどベルの不等式の実証実験がそうであったように、使われた光子の多くは失われてしまうのだ。物理学者はその原因をよく理解しており、この状況でもなお、行われた実証実験は決定的なものであるとみなしている。
しかし、もし私に選択権があるならば、テレポーテーションの実験で光子の代わりに自分自身を犠牲にしたくはない。
より現実的なことを言えば、いくつかの実験では原子のテレポーテーションが試みられており、その際に原子はほとんど失われていない。だが、その場合の転送距離は1mmにも満たないのである。
慎重になる理由はもう1つある。
身の回りの大きさの物体をテレポートするには、それに見合う大量の量子もつれが必要となる。しかし、量子もつれは極めて壊れやすいのだ。それを保持するためには、外界とのいかなる相互作用も含む、わずかばかりの影響(摂動)をも避ける必要がある。
現在の技術でこの理想的な状況を実現できるのは、光ファイバーの中に閉じこめられた光子や、特別な高真空の装置内に捕捉した原子くらいである。
鉛筆の芯の先っぽでも、それをテレポートするためには大量の量子もつれが必要となるが、これに対してテレポーテーションが完全に破壊されかねない摂動を避けることは、現行の技術水準ではまったく考えられない。
今日、たとえ無限に予算が与えられたとしても、この困難を克服できるアイディアを持つ者はいない。つまり、これは単なる技術的問題ではないのだ。
いつの日か、物質の量子状態をテレポートすることに成功することがあるだろうか?
現時点では、まだそれにはほど遠い状況にある。そもそも、私たちは物質を特徴づける量子状態とはどのようなものかを知る必要がある。しかし、それさえも不可能なことが判明するかもしれない。また、身の回りのサイズの物体のテレポートはできないという新しい物理の原理が発見されるかも知れない。
先のことはまったくわかっていない。
しかし、これが科学の不確実さであり、また魅力的でもあるのだ。
おまけのデイブ、非決定論的な世界を語る。
本書の主張として、非局所相関と真のランダム性の存在とが密接に関わっている。
真のランダム性がなければ、必然的に非局所相関は伝送を伴わない通信(任意の速度の通信)を可能にしてしまう。そのため、著者の基本的な立場から、必然的に真のランダム性が導かれ、決定論の終焉が宣言されることになる。
逆にいえば、ひとたび真のランダム性を受け入れさえすれば、非局所相関の存在は、確固たる決定論に基づく古典物理学が私たちに信じ込ませようとするほどには、狂気を帯びたものには見えなくなるだろう。
実際、もし自然界が現実に真の偶然による事象を生み出せるのならば、どうして自然界で観測される相関が局所的なものに限定される必要があるだろうか?
非局所性が形而上学(現代物理学の示唆する自然像)に与える影響は計り知れない。 ヨーロッパで原子論的な考えが主流になるのには、何世紀もの年月を必要とした。 それは、目に見えない小さなビーズのような、膨大な数の原子からなる自然像であり、それが様々な形で組み合わさって、私たちの知るすべての物体を構成する。 原子の不規則な運動は熱として感知され、産業革命をもたらした蒸気エンジンのエネルギーを供給する。 一方で、当時の中国では、このような自然像は知識人にあまり支持されなかった。 彼らは、原子と原子の間に空洞があると感覚や知覚が妨げられ、見ることも聞くこともできなくなってしまうと考えていた。 古代中国の形而上学では、遠隔作用はまったく自然なことであり、すべてのものを関連づける普遍的な調和を成すものだと考えていたらしい。
量子論は、そのような全体論的な自然像を支持しない。
すべてが互いにもつれるのではなく、少数の稀な事象同士が非局所的に相関するのだ。
繰り返し強調するが、こちら側が起因となってあちら側に作用を引き起こすようなことはない。量子もつれは、その効果が複数の地点に現れる「確率的原因」の一種であり、遠隔地間の通信を可能にするものではない。量子もつれは、ある種の問いかけに対して何がしかの相関した応答を生成するために、物体の生来の傾向性を定めるものである。
これらの応答は事前に決まっているものではなく、物体の状態に書き込まれているわけでもない。物体の状態に書き込まれている情報は、何がしかの(相関した)結果を生み出す傾向性に過ぎない。
著者によると、量子的な物体が、物理的に問いかけられるすべての質問に対する答えを内包しておらず、それらの答えを生成する傾向性のみを持つという考え方は、さほど突飛なことではないとのこと。 世界が決定論的ではないという考えを受け入れるのも、難しいことではない。 それどころか、宇宙開闢以来、あらゆることが完全に決められている世界よりも、法則に従う傾向性や偶然の出来事に満ちた世界の方が、ずっと面白いだろう!!
この世界にはまだまだ学ぶことがたくさんあることは間違いない。
私たちはまだ、この非局所性がアインシュタインの相対論とどのように両立するかを理解していない。その数理的構造の全体像や、情報処理への応用が可能な範囲もわかっていない。
さらに、おそらく最も驚くべきことに、非局所性の限界についてすら理解していないのだ。いったいなぜ量子論は、より大きな非局所性を許さないのだろうか?
この最後の疑問は、現在の我々がアインシュタインやシュレディンガー、そしてベルの時代からどれほど進歩したかを示すものになっている。当時の疑問は「量子論が予言する非局所相関は本当に実在するのか?」であった。今日、その存在を疑う物理学者はいないだろう。
現在の課題は、非局所性を相対論に組み込むことと、非局所性の限界について理解することにある。このためには、量子論の外側から量子非局所性を研究することが必要になる。(例えば、「日本」という国を研究するためには、国内に留まるよりも一度世界に出てみた方が、客観的に日本を理解できるだろう。)
そして今、世界中の物理学者はこの課題に取り組んでいるところなのだ。
2022年ノーベル物理学賞に相関されたであろう、未来の研究者たちも含めて(笑)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここで紹介したのは量子もつれに関する種々の事柄のほんの一部である。
もっと知りたいと思ったら、本書を一読して、「量子の海」へ漕ぎだそう。
目指せ!!量子論の隣人(笑)!!これぞ賢者への道程!!
コメント