先日、敬愛する吉田伸夫先生が新刊をだされたので、早速購入&読了。
ブログ主は、吉田先生の著書の多くから理学的考え方や物理描像に影響を与えられており、やっぱり↑この書籍も面白かったので、早速紹介しちゃおう♪
<本書の冒頭より> 人間と世界の話をしよう。 「人間とは何か?」 「我々はどこから来てどこに行くのか?」 こうした問いに対して、さまざまなアプローチが可能だが、どんな場合にも決して無視できない制約がある。 それは、人間が物理的な世界の存在だという厳然たる事実だ。 単に、物質世界の内部に生きているのではない。 人間とは、そもそも物理現象なのである。 この「人間は物理現象だ」という世界観が、本書を通底する立場である。 断っておくが、「人間は単なる物理現象にすぎない」と言いたいのではない。 そもそも、人間の活動を「単なる物理現象」と別物だと思いたがる人が、本当に物理現象の何たるかを理解しているのか、疑わしく思える。 私の知る限り、思考や感情を含めて、人間の活動が物理現象以外の何かであることを示す証拠は見当たらない。 物理法則に従って生起する現象ではあるが、それでも人間は、ほとんど奇跡と言って良い存在なのである。
…う~ん…相変わらず刺激的な物言いだ♪
この書籍では、そんな奇跡的な物理現象である「人間」が生じた過程を次の三部構成で段階的に考察している。
第一部 生命の誕生 高温の恒星から大量の光が冷たい海に降り注ぐことで、通常の熱力学とは異なるエネルギーの移動が実現され、生命の誕生が可能になった。このとき、量子論による構造形成のメカニズムが重要な役割を果たす。
第二部 知性の獲得 予測能力を持つ神経ネットワークを備えた生物は生存に有利になるため、自然選択を通じて生き残る。こうした神経ネットワークの仕組みを、「数を数える」というケースを元にして説明する。
第三部 意識の発生 場の量子論に基づいて、意識が存在する物理的な証拠を論じる。意識は、意識主体(モノ)の活動による事象(コト)ではなく、それ自体が実在的である。
さてさて本記事では、そんな吉田先生の切れ味鋭い考察から、個人的に特に好きなトピックを3つ取り上げよう。乞うご期待!!
生命が誕生する要件
① 宇宙は、整然たるビッグバンから膨張していった こうした宇宙では、膨張によってエネルギー密度が低下したとき、至る所で同じように物質が凝集し、恒星の周囲に惑星が公転する惑星系が形成された。 その結果、高温の恒星から低温の惑星へと大量の光が流れ込むシステムが、宇宙全域で数多く作られた。
② 原子スケールの相互作用は、波動に支配される 原子や分子が持つエネルギーは、「定在波が形成される」という共鳴条件によって特定の値に決まる。 共鳴条件は安定しているため、段階的な化学進化が可能になる。
③ 宇宙と原子のスケールには、巨大な格差がある 恒星や惑星の形成は宇宙のスケールに、海中での化学反応は原子のスケールに基づいて進行する。 このため、化学反応の総計はとてつもない数に達し、自己複製する生合成システムが作られる可能性は高くなる。
この3つの要件は、物理学の基礎的な理論と密接に関係する。
①の状況は、アインシュタインの一般相対論と観測的宇宙論から導き出される。②は、現代物理学の根幹をなす量子論の前提そのものである。③は、疑いようのない観測事実である。
ただし、③に関しては、明確な理論的根拠がなく、偶然の産物である可能性も残されている。宇宙が急激に膨れ上がるというインフレーション理論には、いくつものタイプがある。その一つが、永劫の時間にわたって独自の物理定数を持つ宇宙が無数に誕生し、それぞれが互いに干渉することなく膨張するという説である。これが正しければ、多くの宇宙は充分に大きくなれないため生命を宿すことができず、たまたま巨大に膨れ上がった「我々の」宇宙に生命が誕生したとも考えられる。ただし、このアイディアを検証するのは、既にいくつかの記事で触れたとおり、きわめて難しいだろう。
生命が誕生するためには、宇宙と原子の間に巨大なスケール格差がなければならない。
この格差があって、はじめて膨大なトライアル・アンド・エラーが可能になり、光を浴びた海水中で無数の化学反応が繰り返され、段階的に進行した結果として、化学進化が起きた。
宇宙と原子のスケール格差によって生命が誕生できたのだから、生物は必ず宇宙と原子の間の中間的なスケールを持つ。人間もそうした生物の一種である以上、人間から見て、宇宙はきわめて巨大で、原子はきわめて小さくなければならない。
この大小関係は、人間が存在するための必要条件であり、なぜかと問いかける人間が存在するならば、必然的に満たされる。
知性の獲得は進化の必然ではない
生命の誕生は物理現象である。
冷たい海に恒星からの光が降り注ぐという環境下、エントロピーの局所的減少が可能になったために生じた出来事で、低い確率でしか起こらないものの、物理法則には反していない。
それでは、生命が進化する過程はどうか?
地表に生命が誕生すると、しだいに複雑な体組織を持つ多細胞生物へと進化し、やがては知性を持つに至る……それが進化の必然だと思い描く人もいるだろう。
しかし、生命は物理現象だという立場からすると、あたかも目的があるかのように、生物が特定の方向性を持って進化してきたとは考えにくい。ましてや、知性が進化の到達点だという見方は、あまりに人間本位の主張である。
① 知性の獲得は進化の必然ではない 地球上で知性を持つ生物が現れたのは偶然の産物であり、状況によっては、知性の乏しい生物が支配的になっていたかもしれない。 人類が栄えている現在から眺めると、進化とは、最も知性の高い動物が現れるまでの道程に見えるかもしれない。 しかし、現実には、知性に欠ける生物の方が生存に有利になる環境も知られており、進化するにつれて必ず高い知性を持つ生物が現れるとは限らない。 (本書では、富栄養化が進んだ1970年代の黒海やメキシコ湾などを例に、そのような環境でのクラゲの繁栄を挙げている。詳細は書籍を読まれたし。)
② 人間の知性は汎用的ではない 「人間は、あらゆる問題を(解決できなくても)考察の対象にできる汎用的な知性を持つ」と見なす人もいる。 しかし、我々の知性は、人類がそこで進化してきた環境に規定されており、限られた問題に対応すべく特化されている。 具体的には、神経ネットワークという生得的なハードウェアの特性が制約となり、情報処理の形式が限定される。 人間の場合、視覚を偏重するあまり、出来事の時間的な厚みを感じにくいといった制約が指摘できる。 (多くの哺乳類は嗅覚優位であり、時間的な厚みを持った世界像になると考えられる。本書では、そうした世界像と人間のそれとを比較して考察している。ここでもやっぱり、詳細は本書を読んでくれと言っておこう(笑))
人間の祖先が置かれたのは、栄養が不足気味で生物同士の捕食が激しい争いになっている環境である。こうした環境では、餌や捕食者の存在を素早く察知し、飛びついたり逃走したりするといった反応を迅速に行うことが、生存に有利になる。
このため、人類は、餌や捕食者のような物体的存在に関する認知能力を進化させた。知性を持ったクラゲならば、流速や温度などの連続的なデータを重視するだろうが、人間は、物体に関する情報を視覚データから抜き出して分析することを優先するのだ。
こうした認知戦略は、物体中心に外界を理解しようとする傾向性を生む。現実の世界は時間的にも空間的にも連続的に変動するが、人間は往々にして、この状況を物と物との単純な関係に置き換えて理解する。生存率を高めるには、その程度の理解で充分だからである。
意識は二分法で分けられるものではない
① 意識は「あるorない」の二分法に当てはまらない 意識レベルは、神経ネットワークが活性化した際の複雑さと関係する。 そこで著者は、意識レベルを決定する複雑さの指標として、「関与する次元数」を提案している。 反響回路のように多数のニューロンが複雑に絡み合う興奮状態は、次元数が膨大になるため、意識レベルが高くなる。 これと対照的に、小脳における機械的な計算では、興奮がほとんど一方的・逐次的に連鎖するだけで、ニューロン間の錯綜した連係はないため、各部分での次元数は相対的に小さくなり、意識レベルは低い。 物理現象の担い手となる場は、常に意識を生み出しうる素材である。 1個の分子ですら何次元かに広がった定在波を形成するので、「ここから意識レベルがゼロになる」という境界を画定することはできない。 きわめて低いレベルの意識ならば、どこにでも存在する。 だが、ふつうの人が実感するような「人間的な」意識となると、神経ネットワークにおける反響回路のように、きわめて次元数の大きい複雑な協同現象が実現されたときだけ生まれると考えられる。
ここで言う人間的な意識は、「意識主体が感じる何か」ではない。
そもそも、意識主体など実在しない。巨大な次元数を持つ量子論的状態という物理的な実在が、すなわち意識そのものなのである。
② 意識は「モノandコト」の二分法に当てはまらない 従来の意識論では、まず意識の担い手となるモノを想定し、そこで生起するコトを意識と見なす論法が用いられることが多かった。 しかしこの論法では、「意識が生じうるモノとは何か」という難題が生じる。 モノとコトを別個に想定する議論では、進化によって意識が現れた理由を説明するのも難しい。 何らかのメリットがあって「意識を生じるモノをコードした遺伝子が選択された」という論証になるが、どの生物がこの遺伝子を持つのか、答えは出そうにない。 モノとコトを一体化して扱う量子論の観点に立って、「意識とは、量子論的な状態が形作る構造だ」と考えるならば、こうした謎がすんなりと解消される。 進化の過程で、予測能力を高めるために神経ネットワークが複雑なものになったが、意識はこうした複雑化に随伴して生まれた。 それ自体が目的だったのではなく、あくまで生存確率を高めようとする進化に伴なって、結果的に生じたにすぎない。
こうした考え方を不快に感じる人がいるかもしれない。人間の心が、単なる物質的な現象に随伴するオマケのように扱われているからだ。
おそらく、そうした不快感の背後には、「単なる物質」と「崇高なる精神」の2つを対立的に捉える価値観が潜んでいるのだろう。しかし、この価値観こそ皮相な見方でしかない。
物理現象は、神秘的なほど奥深い。
量子論が示すように、局所的なエントロピー減少を生じさせる熱流があれば、物理法則に従いながら、複雑にして精妙な構造形成を引き起こすことができる。物質的な世界自体が、秩序を作り出す力を持っている。
そう考えると、物理法則に従って人間が作られたと言っても、人間の尊厳は傷つけられないとわかるはずだ。
ただし、物理現象だけで人間のような複雑な生命体を作り上げるのは、自然界にとっても至難の業である。 恒星から冷たい海へと膨大な光が流れ込み、想像を絶するほど多数の反応が繰り返されるうちに、偶然の結果として高いエネルギー状態にある高分子が形成される。 さらに、何億~何十億年の歳月が経過する間に、ダーウィン的な進化過程か繰り返され、生命の誕生から知性の獲得に至る。 実現確率を考えると、これだけの出来事が起きるには、原子と宇宙との間にきわめて巨大なスケール格差が存在しなければならない。 それだけの格差があってはじめて、偶然の積み重ねによって、生命や知性、さらには意識が誕生するのである。
人間は、宇宙の片隅で生まれた。
とてつもなく巨大な宇宙と比べると、どうしようもないほどちっぽけな存在でしかない。
だが、別の見方もできる。
人間というちっぽけな生き物を誕生させるにも、宇宙の広さと長い長い歳月が必要なのだ。
人間とは、そうした存在である。
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ここで紹介したのは、様々なジャンルの視点から考察した人類創世論のほんの一部である。
もっと知りたいと思ったら、専門書を詰め込んで、「理学の頂」の山登りに出かけよう。
目指せ!!理学の友人(笑)!!これぞ賢者への道程!!
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