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教養を適応力に繋げる書籍 その① ~逆境編~

その他
僕は以前から、
著書や講演などを通じて、
「知は力」だと語ってきました。

状況の変化に対して良い判断を下し、
正しい行動を取るためには、
まずは数字(データ,エビデンス)とファクトをしっかりと把握し、
それに基づいてロジカルに考えることが大切です。
数字・ファクト・ロジックとう3つの要素のどれかひとつでも欠けると、
思考が曖昧なものになってしまう。
これは昔から僕がいろいろなところで語ってきた持論です。

(後述おすすめ書籍のプロローグ 「人生最大の逆境」より抜粋)

「当たり前なことを、わざわざ勿体ぶって言ってるなぁ…」

……そんな風に思われるのも無理はないが、例えば脳出血の後遺症で右半身麻痺・失語症になったときでも、同じように冷静に考えれるだろうか?

今回および次回の記事のテーマは、一風変えて、「教養を適応力につなげる書籍」で。

前半戦は「逆境編」ということで、↓の書籍を紹介しよう。

著者は、ライフネット生命の創業者である傍ら、これまでに読んできた1万冊以上の本から学んだ物事の考え方や歴史の知識などを数々の著書としてまとめ、記事作成時点では立命館アジア太平洋大学学長を務められている。ありていに言えば、「マジョリティ(社会的に強い立場)」である一廉の人物だ。

そんな方が、コロナ禍も落ち着き始めた2021年に脳出血を発症し、その後遺症で右半身麻痺と失語症となった。そして、「初めてのマイノリティ(社会的に弱い立場)体験」を経て考えたことを伝えてくれているのがこの書籍である。

(プロローグの続き)

その考えは、
今回の逆境を経験した今も変わっていません。
むしろ厳しい逆境のときこそ、
数字とファクトに基づいて論理的に考えることが求められているのだと思います。

逆境にさらされたとき、
「挫けないよう気持ちを強く持たなければ」と自分を鼓舞する人は多いでしょう。
いつまでも立ち直ることができない自分を、
「弱い人間だ」と責めてしまう人もいると思います。

気力や精神力はたしかに大事です。
でも、
それに加えて重要なのは「知力」だと、
僕は思います。
「教養」といってもいいでしょう。

~中略~

逆境は、
必ずしも苦しいことばかりではありません。
そもそも逆境とは、
自分を取り巻く環境の変化によって生まれるもの。
季節が変われば目に入る風景も変わるように、
逆境を迎えた人には、
それまでの順境では見えなかった風景が見えてくるのです。

なにしろ逆境ですから、
それはあまり良い風景ではないかもしれません。
明るい太陽の下が順境なら、
逆境は暗いトンネルの中かもしれません。
しかし暗いトンネルの中には、
太陽の下では知ることのできない何かが必ずあります。
逆境は僕たちに新しい「発見」をもたらしてくれます。

僕も、
初めての入院から今日までのあいだに、
新しい発見がたくさんありました。
その発見は、
新たな知識として、
僕が物事を考えていく上での武器になっています。

さてさて、前置きが長くなったが、この記事ではそんな本書から2トピックを紹介しよう。

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「運」とは「適切なときに適切な場所にいる」こと

数々の例は本書に譲るが、世界史を知れば知るほど、この世は偶然の積み重ねで動いていると感じるだろう。そんな世の中で生きるには、やはり環境への適応力が欠かせない。

ネアンデルタール人研究の第一人者であるクライブ・フィンレイソンの「そして最後にヒトが残った」(白揚社)という本によると、そもそも我々ホモサピエンスがこの地球上で生き残ったのも、偶然だったとのこと。

ホモサピエンスと共存し、交配もしていたと考えられているネアンデルタール人は、森林で大型動物を狩猟するのに向いた筋骨隆々の体型をしていました。
それが絶滅に追い込まれたひとつの理由は、地球環境の寒冷化と乾燥化です。
それによって森林が縮小し、平原が広がり始めたことで、ネアンデルタール人は生きる場を失っていきました。

一方、ホモサピエンスの体はしなやかで持久力に富んでいます。
森林向きのネアンデルタール人に対して、こちらは平原での狩りにも対応できる。
たしかに、長い距離を走ることのできる持久力がなければ、広大な平原で獲物を仕留めることはできません。
だから、地球環境の変化に適応して生き残ることができたというのです。

ダーウィンが明らかにしたとおり、ホモサピエンスがそのような身体的特徴を備えたのは、たまたま起きた突然変異によるものです。
その特徴が、たまたま環境に適応していた。
ホモサピエンスが生き残れたのは、そんな幸運のおかげです。

そのタイミングで環境の変化が起きなければ、ネアンデルタール人が生き残って、「現生人類」になっていたかもしれない。ホモサピエンスはたまたま運が良く、ネアンデルタール人はたまたま運が悪かったということだ。

フィンレイソンは、生き残るために必要なのは「適切なときに適切な場所にいる」ことだと指摘している。

例えば、どんなに性能のいい凧をつくっても、その場所に風が吹いていなければいくら一所懸命に走っても凧は揚がらない。逆に、たまたま良い風が吹けば、それほど頑張らなくても凧は揚がるだろう。

人生における逆境と順境は、
まさに凧にとっての風と同じでしょう。

もっとも、
いつ風が吹いて逆境が順境に転じるかは、
ただの偶然なので予測ができません。
そもそも、
そのときに凧を持っていなければ揚げられない。
慌てて凧を作り始めても、
完成したときには風が止んでいるかもしれません。

凧があっても、
風が吹いたときに全力で走れるだけの体力がなければ、
やはり凧揚げはできません。

歴史の中で幸運に恵まれた国や人物たちも、
凧や体力などの準備を整えていたからこそ、
そのチャンスをつかんで高くジャンプすることができたわけです。
それが生き残りのために必要なもうひとつの条件、
「適応」です。

目の前の逆境は、次の順境へ向けた準備期間だと考えればいい。

そう心得て、やるべきこと・できることを続けて、状況が転じるのを待つ。

「運」は人間の力でコントロールできないが、「適応」には関与の余地があるのだ。

逆境を生き抜くためには、まず「あきらめる」

これまた数々の例の詳細は本書に譲るが、歴史上の偉人の生き方には、逆境に適応して生き抜くための大きなヒントが隠されている。

それは、いったん「あきらめる」ことだ。

もちろん、より良い人生を送ること自体をあきらめるわけではない。むしろ、未来の人生をより良いものにするために、目の前にある逆境をあきらめるのである。

戦争やパンデミックや大地震、
個人の身にふりかかる病気や左遷や経済苦など、
人生には不条理としか思えないことが起こります。

偶然の巡り合わせで訪れた逆境は、
自分の力ではどうすることもできません。
だから、
「どうしてこんなことになったんだ」
とか、
「どうすれば元の生活に戻れるんだ」
…などと考えても、仕方ない。

逆境自体は「どうにもならない」とあきらめて、
自分の置かれた環境にどう適応するかを考えるべきです。

「あきらめる」とは「運命を受け入れる」ことでもある。そうした運命論者には、後ろ向きでネガティブな印象を感じられるかもしれない。

しかし辞書で「あきらめる」を引くと、「諦める」の他に「明らめる」という感じ表記があるのだ。意味は「明るくさせる」「事情などをはっきりさせる」。「あきらめる」の原義はこちらのほうで、決して悪い意味ではない。

冒頭のプロローグにあるように、物事を考えるときには「数字・ファクト・ロジック」が重要である。その中の「ファクト」をつまびらかにして判断の材料にするのが、「あきらめる」ということなのだ。まずはあきらめなければ、次に向けてロジカルに考えることはできない。

仏教に、わが子を亡くして悲嘆にくれる若い母親の話があります。
子どもの亡骸を抱えた母親は、釈迦に会いに行き、「赤ん坊を生き返らせてほしい」と頼みます。
気の毒がった釈迦は、母親にこう伝えました。
「村へ帰って、ケシの実を2,3粒もらってきなさい。そうしたら赤ん坊を生き返らせてあげよう。ただし、ケシの実は死者を一度も出したことのない家から貰わなければならないよ。」

わが子の命を取り戻したい一心で取り乱している母親には、釈迦がつけ加えた条件の真意がわかりません。
彼女はさっそく自分の村に戻り、家々を訪ね歩きました。
ケシの実はどの家にもあるので、彼女にそれを求められた人たちは皆喜んで差し出そうとします。
でも、釈迦の示した条件に合う家はありません。
これまで死者を出したことのない家など、1軒もない。
祖父母や両親を亡くしているのはもちろん、「うちも娘を亡くしている」という家もありました。

そうやって村中を歩き回っているうちに、母親はようやく釈迦の言葉の意味に気づきます。
生きとし生ける者は、いつか必ず死ぬ。
そして、死んだ者は生き返らない。

こうして、彼女は心の平安を取り戻しました。

まさにファクトを知って「あきらめる」ことで、彼女はわが子の死という逆境に適応したのだ。かく言う著者も障がい者となってからは、いろいろなことをあきらめたという。

最初にあきらめたのは「自分の足で歩く」こと。理学療法士から、「歩行訓練を続けても、退院までに外を自由に歩けるようにはならない」というファクトを示され、リハビリの時間(下記注参照)を他のことに有効に使うために、電動車イスに乗ることを決めたのだという。

(注:脳梗塞や脳卒中の急性期治療後の回復期には、医療保険上で最長180日間のリハビリ期間が設けられている。逆に言うと、専門的な機能回復訓練の期間は、この180日間の時間制限があるということだ。著者はそうした制限内でできることを「選択と集中」したとのこと。)

左手で書く練習を始めたのも、麻痺した利き手を使うことをあきらめたからだという。わが子を亡くした母親と同じで、神様・仏様に「これまでどおり右手で書けるようにしてください」とお願いしても、仕方がないと。残った能力を最大限に生かして、右半身麻痺という逆境に適応するだけのことだと。

その一方で、
言語障がいという逆境については、
何も「諦めて」いません。
いまはまだ言葉が不自由ですが、
一所懸命にリハビリに励めば、
必ず以前のように話せるようになると思っています。

もちろん、
それは僕の勝手な思い込みではありません。
僕を診てくれた医者が、
「言葉は取り戻せます」と専門家として言ってくれたので、
これはファクトに基づく判断です。

つまり、ファクトを「明らめる」ことにより、「だから諦めない」という結論になったわけだ。

「あきらめる」とは「運命を受け入れてベストを尽くす」ことと同義であり、それは精神論ではなく、最も合理的な、逆境の乗り越え方なのである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここで紹介したのは、おすすめ書籍のほんの一節ですらない(笑)

なにせ体験談がベースにあるもんだから、書籍に刻まれたその時々の想いや思考は、是非一読して感じ取っていただきたい。

なお、過去にこうした逆境に対する偉人の逸話も紹介したことがあるので、そちらも見ていただければ幸いである。

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