数学者の時間感覚を象徴する一つの例は普段の研究のペース、
特に他の研究者との競争である。
数学者ももちろん世界的な研究競争にさらされており、
論文を書き続けなければ学界で生き残ることはできない。
競合する研究者との先取権の争いも当然ある。
しかしながら、
競合している研究者が世界中にいて
一刻を争って研究しているというわけでもないように思う。
同じテーマを研究している人がかなり少ないことが多いのだ。
最先端の数学論文について、
その難しさを表わすため「世界で10人しかわからない」などと言われたりするが、
技術的なことまでちゃんとわかる人が世界で10人もいないことはごく普通である。
たとえば私が今書いている論文に、
わざと明らかな間違いを入れておいて、
それをきちんと指摘できる読者がどれだけいるかを考えてみれば、
世界中に5人くらいしかいないだろうと思う。
少しでも気を抜いているとすぐに世界中の誰かに出し抜かれるかもしれない
…というストレスを抱えながら研究している人たちはとても大変だと思うし、
そのような苦労に敬意を払うところではあるが、
私はそういう競争には向いていないと思う。
自分が少し出遅れたら世界の誰かが同じテーマで先んじてしまうというのなら、
自分がいなくても科学の進歩に影響はないのではないか、
と思ってしまう。
私は自分の研究テーマではたいてい、
自分がやらなければこの分野が停滞してしまうと思って研究している。
(本書「数学研究と競争」より一部改変して抜粋)
さてさてさてさて、前回・前々回・前々々回に引き続き、おすすめ書籍↓のトピックをば。
なおなおなお、数学者の方々の研究論文ほどではないが、ゆっくりとしたペースで投稿していたこのシリーズ↓も今回でやっと完結できます。
長々とサーセン(笑) まぁ誰かと競争しているわけではないし、お許しを(笑)
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数学と物理学① ~物理学から数学への刺激~
数学科では何年も抽象的な議論の訓練を行って初めて、
数学者としてやっていけるようになる。
大学教養課程の後から数えても5年くらいの訓練は最低限必要であろう。
そのくらいの時間をかけなければ研究することはもちろん、
最先端の論文を読むことが困難である。
だから大学院生のころ私は、
そういう訓練を受けていない物理学者と研究の話が通じるとは思っていなかった。
大昔はともかく、
現在では数学と物理学はすっかり離れたものになってしまったと考えていたのだ。
ところが1990年前後から、
万物の理論ともいわれる超弦理論(諸説あり)を研究している理論物理学者たちが、
我々とかなり話が通じることがわかってきた。
特にその分野トップであるエドワード・ウィッテンが1990年にフィールズ賞を受賞したことは大きなインパクトがあった。
(なお本記事掲載時点で、フィールズ賞を受賞した物理学者は彼一人だけである。)
日本でも私のやっていることが理解できる、
さらには私の研究に役立つようなことを教えてくれる物理学者が何人もいるのだ。
これは大きな驚きだった。
数学で一番重要な論証の方法は証明である。
これこそ数学における真理を獲得するための唯一の方法といっていいくらいだ。
数学と物理学の境界領域を研究している学者が数学者か物理学者かを分ける最大の基準は、厳密な証明をするかどうかである。数学者も研究の途中で厳密でない推論方法を使うことはもちろんあるが、それで正しい結論を得られる見込みはあまり高くない。
ところが物理学者たちは数学とはまったく違った論理に基づいて、なぜか正しい結論、それも数学者が思いつかないような結論に到達できるのである。
著者もそのような超弦理論の研究者との交流には慣れてきたとのことだが、この5年くらいで、さらに新しい展開があったと。それは物性物理学者たちとの関係である。こちらの分野にも著者と話が通じる物理学者がたくさんいるのだそうだ。
研究上の話題について自分と理解し合えるような人の数は、専門化が進むにつれてどんどん減っていくようなイメージを著者は若い頃もっていたので、これはうれしい驚きであったと述べている。
最近では物性物理学者と組んで研究会を開催したりして、大きな刺激を受けていると。
数学と物理学② ~数学者にとっての難しさ~
多くの数学者にとって最新の物理学を学ぶことはとても難しい。
物理学の本や論文は数学のようには書かれていないからである。
物理学の論証が数学の基準で厳密ではないことが、
その障害であるようによく言われるが、
それ自体はそれほど大きな問題ではない。
そういう場合は、
「この部分は数学的に厳密な議論を行っていない」
「数学の立場からは論理が飛躍している」
とわかるので、
そういうものだと思って論文を読んだり話を聞いたりすればよいからである。
数学者にとって最も難しいのは、
定義や仮定がよくわからないということである。
数学の論文や本では用語が厳密に定義され、定理の仮定や結論ははっきりと述べられ、その証明は一分の隙もない厳密な論理によってなされる。
一方、物理学の本や論文は全然そうではない。多くの基本的な用語に厳密な定義はないし、議論で何が仮定されているかもよくわからない。物理的な直感・感覚が名言されずに使われていることも多い。
例を挙げると、「対称性」という言葉はよく使われるが、どのような数学的構造について対称だと言っているのかはしばしば、数学的に厳密なレベルでは名言されない。
それでもいろいろな交流をしているうちに、
だんだんとわかる部分が増えてくる気がする。
物理学者の中でも、
数学者にわかりやすいように話したり書いたりしてくれる人がおり、
講演や論文をもとに少しずつわかる部分を広げていくことが有効であった。
そうこうしているうちに、
物理学者の論文で行っている議論と数学ですでに知られている理論の関係を明らかにする、
物理学の論文で問題とされていることに数学的に答える、
物理学の問題意識にもとづいた設定での研究を数学的に行う、
といったことがある程度できるようになってきた。
一度、
とても有名な物性物理学者のトップジャーナルに載った論文を読んでいたのだが、
最初何を言っているのか全然わからなかった。
しかしよく読んでみるとその中核的部分は、
ある数学的主張が成り立つと予想されるということを、
いくつかの具体例を根拠として述べているのだった。
ところがその問題はすでに私にごく近い数学の分野で研究されており、
そんなことは成り立たないということはすぐにわかるのであった。
私は「成り立たない」ということを説明した短い論文を書いて
元論文の著者の物理学者たちに知らせて感謝されたが、
こういうことが自分の分野で起こるとは思っていなかったので大いに驚いた。
それでも、
これまではほぼ理論物理学者との交流に限られていたのだが、
今年の4月に実験物理学者の前で講演する機会があった。
その一人からは「お前の話し方は理論物理学者のようだ」と言われたのであった。
私の理論物理学者との交流もだいぶ深まってきたことの成果なのかもしれない。
(注:著者がエッセイ記事を投稿した2023年9月時点)
数学者の時間間隔
数学は不滅の真理を研究している。研究成果の価値が時間経過によって減ることはない。
ユークリッドやピタゴラスはなどが築いた、古代ギリシャ数学の成果は今も学校で教えられている。そのためか数学者は長い時間間隔でものを考えるのに慣れているように思う。
コンピュータ科学や理論物理学は数学に近い学問分野のはずであるが、これらの研究と教育は数学よりずっと速く変化しているとしばしば感じる。
そのことの一つの例は、研究者がふだんどのくらい古い文献を読むかである。
私の専門は数学の中では比較的新しく、
20世紀前半に始まった分野なのだが、
たとえば1970年代の論文や本はよく読むし、
よく引用する。
私の感覚では1970年代はほぼ現代である。
数学でもさらに歴史の古い分野を研究している人たちは、
もっと昔の文献を普段から読んでいるはずである。
19世紀の論文を引用している数学者もそんなに珍しいわけではない。
また、高校までで教えられている数学の内容はこの数十年間でほとんど変化していない。
行列と複素数平面が高校数学の範囲から出たり入ったりしているが、どちらも基本的な重要性をもっていることに変わりはなく、高校数学と大学初年級の数学をまとめて考えれば、この数十年でまったく違いはないと言ってもいいくらいだ。
生物学の高校教科書の内容が大きく変化しているのと大違いである。
また、数学科の大学3~4年生くらいに教わる基礎理論も世界共通の内容であり、著者が学生だった40年前と同じことが同じように世界中で教えられている。
旧態依然の教育という批判もあるかもしれないが、著者としては、100年や200年では価値の変わらないものを教えているのだと考えているとのこと。
最近の大学改革で、
今の大学教育とはまったく違ったものになった、
というようなことがよく言われているのだが、
私はあまりそうは感じない。
数学教育の内容もスタイルも基本的に昔と同じだと思う。
この意味は、
昔と同じようにいい加減にやっているということではなく、
昔からきちんと教えていたということである。
前にも書いたように私は40年近く前にアメリカの大学院に留学したのだが、
日本で習った内容が不十分だったとか、
教え方が悪かっただとかは少しも感じなかった。
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最後に、遠い過去と遠い未来に思いを巡らす、本書最後の一節をば。
あるノーベル賞受賞者が、
「基礎研究から実用化まで20年かかった。
このようにたいへん時間がかかるものなので、
基礎研究について長い目で見てほしい。」
…と言っているのを聞いて、その時間感覚の違いに驚いた。
私の感覚では
基礎研究をした人が生きている間にその実用化ができるというだけで十分速いし、
20年などはとてつもない速さである。
200年でもそんなものだろうと思うし、
2000年になって初めて、さすがに時間がかかったかなと思うくらいだ。
この原稿はローマ大学で書いてあるのだが、
ローマには2000年以上前の遺跡がたくさんあり、
カエサル暗殺の場所も今に残っている。
イタリア人たちと永遠の都で数学をしていると、
2000年でさえも大した長さではないように感じられてくる。
私個人としてはそういう時間軸で研究生活を送れることを、
深く感謝しているところだ。
つなげろ!! 数学者の思案(完結編)!! これぞ賢者への道程!!
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