突然だが問おう! 博士公聴会とは何ぞや?
博士公聴会:「defence」
博士課程の学生が自身の研究成果を審査委員会の前で発表し、その学術的な価値と正当性を評価される場のこと。
博士論文の内容をプレゼンテーションし、その過程で得られた知見・方法論・結果の解釈を説明し、質疑応答に答えることが求められる。
このプロセスは、研究の独創性や有用性が評価される重要な段階で、博士号の取得に必須の要件である。
博士公聴会が英語圏で「defence」と呼ばれるのは、自分の研究を「防御」する行為とされるためだ。
審査委員会は質問や批判を通じて、研究の正当性や信頼性を確認し、学生はこれに対して論理的かつ科学的に回答しなければならない。
このため、博士公聴会は研究者としての力量を示す場であると同時に、学生が博士号取得に向けて最終的な「防御」を行う場でもあるのだ。
この伝統は中世ヨーロッパの学問における討論文化に由来しており、当時から学問の場では討論による検証と論理的な防御が重要とされてきた。
現代においてもその伝統が続いており、博士公聴会は学術の場での「防御」の一形態と見なされている。
(↑ChatGPTに博士公聴会について尋ねてみました(笑) サボるな(笑))
この頃の職場では大学院生の方々(下記注釈参照)が博士公聴会の準備に追われており、それを見守りつつ自分の頃を懐かしむ上級医と、いつか自分もそうなるのかと恐れおののく専攻医とで、にわかにお祭りのような雰囲気が流れている。
(注釈:医学分野では、一通り専門医の資格を取ってから大学院進学することが多い。研修医を終えて専門医の課程に入った医師よりも、大学院生が先輩である場合がほとんどである。他学部でいえば、一度社会人になってから、再度大学院に戻ってきたようなイメージ。)
ブログ主の場合は、理学部の大学院時代を懐かしみつつ、医師としてキャリアを積んでいく過程でいつか自分もそうなるのかと再び(?)恐れおののいており、一石二鳥だ(誤用(笑))。
ただし、理学部で理論物理を専攻していたときと比べて、他学部・他学科の大学院では様々な点で文化が異なることが多いとも感じる。
そこで当記事では、同じ理学部でも数学科の文化について、本邦数学界の第一人者が月刊誌『科学』で連載したエッセイ原稿をまとめた書籍↓を紹介しよう。
数学と理論物理は、近年こそ事象や概念の理論を共有して研究されることも多いが、やはり全然違う分野なのだなと、読了後にしみじみと感じた。
よく抱かれがちな「数学者は変人」というイメージを強調する意図はないが、敢えて表現するなら「数学界の独特な文化」を味わえる一冊なので、乞うご期待。
なお、本記事では書籍の中から、印象に残ったトピックをいくつか取り上げた。
他にも知りたい!……と思ったそこのあなたは、↑のリンクから書籍を購入して、ブログ主にアフィリエイト代をください(笑) 悪しからず。
経済的サポート
最近よく話題になってきたように、アメリカ(および大半の海外大学)では、大学院生の授業料は免除になり、暮らしていけるだけのお金がもらえるのが普通である。
ただし、その仕組みは数学では多くの理系学科と異なっている。
多くの理系学科では研究に実験が伴うため、教員が取ってきた研究費で大学院生の給料を払い、大学院生はそれに応じて教員の計画の中で研究し、その成果がそのまま博士論文の内容になるということが多い。
教員の方はこのために研究費を取ってこなくてはいけないし、大学院生の方は給料をもらうにふさわしい実力を見せなくてはいけない。
数学科にもこのような仕組みは一応あるが、あまり普通ではない。
数学では、ティーチングアシスタント(TA)として授業や演習を教えながら授業料免除の上に給料を受け取るというパターンが圧倒的に多い。
単に研究だけしていればお金をくれる奨学金もあるが、それをもらえるのはかなり優秀または幸運な人である。
アメリカでは教育経験を積むという面からもTA経験は必須とされており、教え方の指導もしっかり行われる。著者は昔、黒板の文字を大きく読みやすく書け、学生の方を向いて大きな声で話せ、絶対に1分でも時間オーバーするな、といったことを習ったらしい。大変良い経験だったとのこと。
TAとして教える授業の負担は大学によって、また個人によってかなり違うのだが、私が昔TAをしていたときは、収入(授業料免除分を除く)を実働時間で割った時給は数千円~1万数千円のレベルだった。(幅が大きいのは、私の留学中に円高が急速に進んだからである。)
私の頃に比べアメリカの給料、物価は大幅に上がっており、また円安も進んでいるので現在の条件はもっと良いものがある。
(注:著者がエッセイ記事を書いていた2022年12月頃の評価。悪しからず。)
このような充実したサポートのため、アメリカでは大学院生は独立した社会人という意識が強い。アパートの賃貸もクレジットカードの申請も自分だけでできるし、結婚している大学院生も少なくない。
日本の大学院生がいつまでも学校に行っている物好きみたいに思われがちなのとは大違いである。
なおアメリカの学部でも奨学金はあるが、著者の経験上ではアメリカ人と競争して獲得するのは容易ではないと。
一方、大学院ではきちんとした実力があれば、自分や親のお金を使わないで博士号を取るのはずっと簡単である。
日本の大学の授業料は近年大幅にアップしたとはいえ、アメリカよりはるかに安く、基本的なことをきちんと教えるということにかけては日本の学部教育は優れている。
その意味では、日本の学部でしっかり勉強したうえで、アメリカの大学院に留学するのは、コストパフォーマンスの点からみてかなり合理的な選択だと思う、とのこと。
大学院生の勉強と研究
大学院に進んでも勉強の形式は講義とセミナーで、学部とあまり変わりはないが、当然研究して論文を書くことが加わってくる。
数学の場合、教員の研究チームに加わって共同研究するということはあまり普通ではなく、大学院生でも自分で研究テーマを見つけて自分で論文を書き、指導教員は共著者にはならないことが普通である。
数ある論文の中に指導教員との共著論文があっても別に問題ないが、すべての論文がそうであれば、一人で研究できない大学院生で研究能力が低いとみなされることが多いと思う。
伝統的に日本では修士論文の重みが大きく、優秀な人は一人で立派な修士論文を書いて、それをジャーナルに投稿して出版するものだという意識が今もかなりある。
東京大学(本書発行時点の著者の所属先)の場合、実際に大学院生の単著論文として出版される数学の修士論文は1/3くらいだと思う。
一方、数学では論文の数が少なく、査読にも時間がかかるので、博士論文を取る際にすでに論文が何本か出版あるいはアクセプト(掲載予定として採用)されていなくてはいけないという規則は通常ない。
あくまで審査の基準は、博士論文として提出されたものに学術的価値があるかどうかであり、それを審査するのが審査委員の役目である。
これは世界的に共通のことで、たとえばデータベースで10年前にハーバード大学で純粋数学の博士号を取った人たちを調べてみると、博士号取得時点で論文が出版またはアクセプトされていたと思われるのは半分弱である。
ビジネスとしての大学経営と数学
金を稼げる大学という方向への要求が最近の日本で強まっているが、それに対する反発も大きい。
ビジネスとしての大学経営というものが一番徹底している国は明らかにアメリカであるが、ビジネスからは縁遠い純粋数学についても、一番研究が盛んな国はやはりアメリカである。
なぜこのようなことがうまくいっているのだろうか。
アメリカでも純粋数学の研究がビジネスとして成り立っているわけではない。
お金が取れるビジネスとして成功しているのは「教育」であり、それに付随して研究も公的にサポートされているという面が強い。
最近のアメリカでは、子どもの大学の授業料と寮費でなんと年間1000万円かかるとのこと。
このように教育は大金の動くビジネスである。
日本では学科の定員や授業の数はかなり固定的だが、アメリカでは学生の人気によってしばしば変動する。しかし、数学の受容は安定して高く、これが数学科で多くのテニュア職(任期付きで雇用し、任期終了前の審査により終身雇用の職を与える制度)がある理由なのだ。
たとえば、数学の授業の数は物理学より物理学よりずっと多い。
アメリカに住みたい、アメリカで働きたい、そのためならいくらでもお金を払うという人は世界中にとてもたくさんいる。
そのために最も手っ取り早い方法の一つはアメリカで大学(院)を出ることであり、これがアメリカで教育が産業として成立していることの大きな理由の一つである。
このため大学(院)教育に経済的価値があり、それゆえに公的なサポートがついてくるのである。
ここまでの価値を大学(院)教育にもたせることは日本ではなかなか難しいことであるが、その経済的価値を高めていくことは我々、日本の大学関係者にとって大きな意味があるであろう。
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おいおい、誰が1記事で全トピックを紹介するといった? (タイトルで察しもつくが(笑))
続きのトピック↓は次の記事にて。お許しを(笑)
数学研究とフランス語
ルーマニアの数学
数学ジャーナル
プレプリントと数学
数学と物理学
数学者の時間間隔
……残ったトピック多くね?(笑)
次の記事でも似たような展開になりそうだが、それぞれの内容が味わい深く、なるべく削りたくないので、まぁ何記事になるかを乞うご期待ということで(笑)
感じろ!! 数学者の思案(大学院編)!! これぞ賢者への道程!!
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