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哲学の名著をざっと知りたい! おすすめ書籍

理学・哲学
哲学者は日々、世界について思いを巡らせながら過ごす。厳密には科学ではないものの、哲学は現実の奥底にある真実をつまびらかにしようとする。その探求こそが知識や論理的思考の支えとなり、ひいては科学的手法の必要不可欠な部分となる。

哲学には4つの主分野がある。
「認識論」は知識について論じる。知識とは何なのか、どのようにして獲得され、処理されるのか、などということだ。
「倫理学」は道徳的なジレンマを解消しようとする学問だ。合成生物学のような生命の創造に関わる科学研究は、厳密な倫理的検討のもとで進められるべきものになってきている。
「論理学」は我々の推理や演繹のプロセスについて論じる。
最後に「形而上学」は、科学的に検証することができない領域にある世界の現実についての問いを研究する学問である。例えば、「神はいるのか?」などという問いだ。

哲学(Philosophy)という言葉はギリシア語に由来するものであり、「知(智)を愛する」という意味である。
(参考:いつもの↓の文献。ブログ主の分霊箱のひとつ(笑))

アリストテレス 「形而上学」、デカルト 「方法序説」、カント 「純粋理性批判」……など、一度はその名を聞いたことのある偉大な哲学者たちが世に残した名著の数々。

本記事で紹介する書籍↓(↑じゃないんかい!(笑))は、そんな名著50冊の要点をわかりやすく整理し、目まぐるしく変化する現代社会を生き抜くために役立つ「本物の教養」を提供してくれる一冊。

いわく、「無敵」の考え方がこの一冊で丸わかり!! でかくでたもんだ(笑)

文学部哲学科在籍歴のある同僚いわく、作者は哲学・社会学でエネルギッシュに著作をだされている先生で、この本でも以下の章構成で古典の傑作から新たなるベストセラーまで「批評する視点」も含めて内容紹介している。(毎度のことだが、書評者としてブログ主惨敗(笑))

① そもそも哲学って何? 「哲学の誕生」と「神とは何か」を知る名著
② どうすれば正しい判断ができるか? 「理性とは何か」がわかる名著
③ この世の中をどう生きるべきか? 「世界」と「自分」のつながりが見える名著
④ いったい自分は何者なのか? 人間の「存在」をめぐる名著
⑤ 哲学はどこへ行くのか? 「今と未来」を読み解く名著

いつものことながら、名著を解説した本をさらに解説するというのもなんなので、ブログ主チョイスで思わず「なるほど…」と考えさせられた本を4冊ほど挙げよう。

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「人生の短さについて」 (西暦49年) ルキウス・アンナエウス・セネカ

人生に対する反省と深い洞察を特徴とするストア派に属した、ローマ時代の哲学者セネカ。

この名著は、そんなセネカが一時政界から追放され、コルシカ島の生活から再び政界に復帰しようとした西暦49年に、ローマで書かれたものだ。

本書の主張は、冒頭の文章でほぼ表現できるかもしれない。

大部分の人間たちは死すべき身でありながら、自然の意地悪さを嘆いている。
その理由は、我々が短い一生に生まれついているうえ、われわれに与えられたこの短い期間でさえも速やかに走り去ってしまうから、ごく僅かな人を除いて他の人々は、人生の用意がなされたとたんに人生に見放されてしまう、というのである。
(中略)
しかし、我々は短い時間をもっているのではなく、じつはその多くを浪費しているのである。
人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、もっとも偉大なことを完成できるほど豊富に与えられている。

人間を「死すべきもの」と呼び、その人生が有限であることは、ギリシアの哲学者たちによって繰り返し語られてきた。

それに対して、セネカは「人生が短い」のではなく、その時間をどう使うかによって変わってくる、と強調するのだ。「人生は使い方を知れば長い」というわけである。

君は自分を衆人から切り離すのがよい。
年齢不相応に今まであちこちへと追い回されていた君は、結局のところ、静かな港に帰るがよい。
(中略)
苦労が多く絶間のなかった幾つもの試練をとおして、君の徳性はすでに十分に証明されている。
君の徳性が有閑な生活のなかで、どんなに振舞うか試してみるがよい。
君の生涯の大部分、少なくともその良き部分は、すでに国家のために捧げられた。君の時間の幾らかを、君自身のために使うのもよいではないか。

要職につく友人パウリヌスに対してこう語るセネカが、その直後に再び政界に戻ることになったのは、皮肉なことである。

「単子論」 (1714) ゴッドフリート・ライプニッツ

微分積分や二進法などの数学的才能で知られるライプニッツ。

ヨーロッパの17世紀、俗に言う「天才の世紀」に活躍したドイツの数学者・哲学者である彼が残した、数少ない哲学的な著作が本書である。

「単子論 (モナドロジー)」は分量がきわめて少ない。原文はフランス語で書かれ、もともとの論考にはタイトルがなかった。彼の死後に発表するとき、「モナドロジー」という題名がつけられたのだ。

一般に「単子論」と訳されているが、「モナド」という言葉はライプニッツの造語であって、ギリシア語の「1 (monas)」に由来している。

ライプニッツは、世界を構成する要素として「モナド」を想定したのである。

それまで究極的な要素として「原子 (アトム)」が語られてきたが、ライプニッツはその概念を批判し、究極的な要素が「モナド」であると主張した。

問題は、こうした「モナド」をどう理解したらいいのか、ということである。

イギリスの哲学者ラッセルは「モナド論」について「おとぎ話」だと述べたことがあった。

たしかに、「モナド論」はある意味で思考によって組み立てられたもので、実証的に検証できる代物ではない。ライプニッツは思考の原理として「モナド」を想定し、そこから世界を理解しようとしたわけである。

ライプニッツはモナドを特徴づけるとき、「表象 (perception)」という言葉を使って説明している。これは「意識」とは区別され、もっと原初的な「欲求」ともいわれている。

ここからわかるのは、「モナド」が動物にも共通し、人間だけに限定されないことだ。モナド=表象という点で、人間も動物もその「魂」が「モナド」と呼ばれる。そう考えると、ライプニッツの「モナド論」はアリストテレスの「デアニマ (心について)」につながり、現代の生物学・生理学・心理学の観点からも読み直すことができるだろう。

注目すべきは、「モナド論」の中で、ライプニッツが「パースペクティヴズム (遠近法主義)」を提唱していることだ。これはニーチェが強調したことで一般にもよく知られるようになった。しかし。その源泉には「モナドロジー」があったのである。

世界の見え方は認識主体の立場により異なり、絶対的な世界認識はありえない

この議論は現代にも通ずるもので、ライプニッツの現代的な有効性を示している。

「論理哲学論考」 (1921) ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

1960年代頃まで、哲学の潮流はマルクス主義・実存主義・分析哲学の3つに分けて理解するのが常道だった。その1つ、分析哲学に決定的な影響を与えたのが、ウィーン生まれの哲学者ウィトゲンシュタインである。

分析哲学を考察するとき、一般には前期と後期に分けて理解するが、かの哲学者はいずれにも関与している。彼は、いわば分析哲学の歴史そのものと考えることもできるだろう。

まず、前期の分析哲学は論理実証主義と呼ばれ、数学や論理学のような学問と、自然科学のように実証可能な学問だけを真の知識と考え、論理的でも実証的でもない形而上学を批判した。この論理実証主義に多大な影響を与えたのが、ウィトゲンシュタインの初期の著作「論理哲学論考」である。

本書は、100ページ程度しかなく、しかもほとんどが箇条書きの文章である。このようなスタイルで、ウィトゲンシュタインが展開しているのは、「写像理論」という考えである。これは「言語が世界を写す像である」とみなす考え方だ。

一方に言語があり、他方に世界がある。ウィトゲンシュタインによれば、言語は文(命題)から構成され、文は単語(名)にまで分解できる。これに対して、世界は事実(事態)から構成され、これは対象にまで分解できる。

具体的に考えると、「太郎は花子を愛している」という文は、世界で<太郎が花子を愛している>という事実の像なのである。

この考えのポイントは、言語を扱う場合、ソシュール言語のように単語を基本にするわけではなく、あくまでも文や事実を単位とすることである。「モノ(物)」ではなく「コト(事)」を出発点とするのだ。

では、このようなスタンスをとる「論理哲学論考」は、哲学の問題に対して何を語ることができるのだろうか。ウィトゲンシュタインが語るには、この本は新しい哲学体系をつくろうとしたわけではない。むしろ、今までの哲学の誤りがどこにあったのか、論理的に明らかにしようとしたのである。

こうして、深淵そうにみえる形而上学的な思想は、無意味なものとして一挙に批判され、退けられることになった。

本書によって、彼は「哲学のすべての問題を原理的に解決した」と考え、いったん哲学から身を引き、建築の設計や小学校の教師など、他の仕事に携わるようになった。ところがその後、前期の思想に対する自己批判が芽生え、再び哲学に従事するようになったのだ。

こうして後期の「哲学探究」に結実する思想が形成されていくが、それに伴って分析哲学も新たな方向へ転換し、日常言語学派と呼ばれる潮流がわき起こっていくのである。

「なぜ世界は存在しないのか」 (2013) マルクス・ガブリエル

21世紀になってデリダが亡くなり、現代思想を索引していた哲学者が不在になった。

この先、哲学がどこに向かうのか?

人々が関心を寄せていたとき、期待の逸材として現れたのがドイツの哲学者マルクス・ガブリエルである。

本書は全体構想(3部作)の第1部で、第2部として「<私>は脳ではない」、第3部「思考の意味」がすでに出版され、3部作は完結している。

彼の哲学の中心的なテーマは、現代の哲学的な状況をいかに切り開いていくかにある。

20世紀には、ポストモダン哲学が流行し、相対主義的な思考法が世界的な傾向となった。他方で、科学技術や認知科学の進展によって、自然科学的な思考法(これを自然主義と呼ぶ)が力をもち、他の分野にまで侵食するようになっている。

例えば、人間の心の探究でさえ、脳の解明によって理解可能になる、といった考え(脳科学神話)が支配的になっている。

こうした2つの傾向に対して、「哲学はどのような答えを用意し、問題解決を図っていくのか?」…という問いに答えるのが、彼の3部作である。

ガブリエルの独自性は、事柄の総体というウィトゲンシュタインの「世界」概念に、「意味の場」を付加したことにある。

「AはXという意味の場においてBである」となる。
例えば、ユニコーンは神話という意味の場において存在するし、私が見た夢は私の記憶という意味の場において存在している。
それらは物理的な意味の場では存在しない。
だとしても、他の意味の場で存在するのだ。

どんなものも無条件に存在するわけではなく、「Xという意味の場」で存在するわけである。

問題は、「世界」もまた「Xという意味の場において存在するのか」ということである。しかし、そうなると、Xは世界よりも大きいことになるだろう。これは「世界」の定義(最も大きな領域)に反する。したがって、「世界」を包括するような「X」は存在しない。そして「X」が存在しないのであるから、「世界」も当然存在することはない。これがガブリエルのいう、「なぜ世界は存在しないのか」のロジックである。

こうしたロジックによって、彼は何を主張したいのだろうか?

その基本にあるのは、現代の「自然主義」的傾向を批判することだ。

「自然主義」によれば、存在するのは物理的なものやその過程だけになり、それ以外は独自の意味をもたなくなる。例えば、心の働きも、結局は脳とその過程に還元され、脳を理解することで心も理解できる、とみなされる。

しかし、こうした自然科学的宇宙だけでなく、心に固有の世界もまた存在すると、「新実在論」は主張するのである。

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ここで紹介したのはおすすめ書籍でおすすめされた本の概要である(笑)

もっと知りたいと思ったら、本書を一読して、「哲学の書庫」を覗いてみよう。

目指せ!!哲らか(あきらか)な人!!これぞ賢者への道程!!

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