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量子力学の原点にして問題点(?)を振り返る ~光量子仮説② ウィーンの怪しげな仮定~

量子論
「元気にやっているようで何よりです」
とアインシュタインが言った。

ボーアは、微笑みながら首を振った。
「科学的観点から見れば、
僕の人生は有頂天と絶望を繰り返して過ぎていくのです…
活力と過労の感覚を、
論文執筆時と未発表のときの感覚をあなた方もご存知でしょう」
そう言うとボーアは真顔になった。
「僕はいつも、
量子論という難題に対する考え方を徐々に変えているからなのです」

「そうだ」
ゾンマーフェルトは繰り返した。
「そうなのだ」

アインシュタインはほとんど目をつぶり、
頷いていた。
「その壁が私の前に立ちはだかっている。
その困難といったらひどいものだ」
彼は目を開けて言った。
「量子との格闘に比べれば、
相対性理論なんて息抜きみたいなものですよ」

(おすすめ書籍1冊目 第5章『市電に乗って』より抜粋)

さて、量子力学黎明期のボーアとアインシュタイン(とゾンマーフェルト)のやり取りを味わいつつ、前回↓に引き続き、原点にして問題点(?)である「光量子仮説(光量子論)」について綴っていこう。

量子力学の原点にして頂点(?)を振り返る ~光量子仮説~
「1年前、プラハにいたアインシュタインを訪ねたときのことだ。アインシュタイン、君が話せよ。」「僕の研究室からは公園が見...

参考書籍は↓。1冊目を読んでいると、また大学院時代のようにどっぷり研究生活に浸かりたくなる今日この頃。生活資金? 無粋なことを申すな(笑)

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黒体放射の問題 ~ウィーン~

三段跳びのホップの役割を果たしたのは、
ウィーンである。

東プロイセンの農場主の家に生まれたウィーンは、
ベルリン大学のヘルムホルツの下で研鑽を積み、
1900年にはレントゲンの後任としてヴェルツブルグ大学の教授に就任、
晩年にはドイツ物理学会の会長も務めたという、
折り紙付きの正統派物理学者である。

彼が特に関心を寄せたのが、
「黒体放射」の問題だった。

(おすすめ書籍2冊目 第1章より抜粋)

物質を加熱すると、注入した熱エネルギーの多くは物質の温度を上昇させるのに費やされるが、一部は電磁波のエネルギーとなって外部に放出される。

これが「放射(熱放射)」と呼ばれる現象である。

現実に存在する物質の場合、表面で起きる複雑な反応のせいで、どのような電磁波が放出されるかを理論的に求めることは難しい。

そこで、グスタフ・キルヒホッフ(1824~87)は、議論を始める手がかりとして、外から照射された電磁波をいっさい反射することなく吸収してしまう仮想的な物体について考えることを提案した。

この仮想物体が「黒体」である。

黒体は、
光を全く反射しないので、
常に真っ黒に見えそうなものだが、
実はそうではない。

物質は電荷を帯びた電子やイオンから構成されており、
これらが熱で振動するため、
振動子となって電磁波を放出するからである。

これが黒体放射である。

温度が低いときは、
目に見えない赤外線が中心となるが、
数百℃に加熱されると赤身を帯び始め、
1000℃を超えると赤から紫に至る全ての可視光線を強く放射するために
白く輝いて見える。

どんな物質でも、
1000℃以上の高温になると、
黒体放射とほぼ等しい熱放射を行うことが知られている。

溶鉱炉の中にあるドロドロに溶けた鉄も、
高温のガス体である太陽の光球も、
黒体放射をしていると言って良い。

19世紀後半のドイツでは、普仏戦争の勝利で獲得したアルザス・ロレーヌ地域の石炭と鉄鉱石を利用して製鉄業が盛んになっており、鉄の品質を保つために温度管理が重要であった。

経験を積んだ職人なら、「色が白っぽいから出銑に適した温度」などと目で見て判断できるが、このやり方では誰もが適切な作業を行えるというわけにはいかない。さりとて、1000℃を超す溶鉱炉の内部に温度計を持ち込むこともできない。

そこで、黒体放射の理論に基づいて、正確に温度を判定する技法の開発が物理学者に求められ、学界の関心も集まっていたというわけだ。

熱力学によれば、黒体放射の場合、ある波長の電磁波がどれだけの強度(電場・磁場の振幅の2乗)になるかは、物体の温度だけで決まる。したがって、波長ごとの強度分布が温度によってどのように変化するかを表わす式さえ得られれば、ある波長での強度の測定値を使って温度を計算できるはずである。

問題は、黒体放射の強度分布が簡単な式で表されるかどうかだ。

製鉄業者の期待とは裏腹に、この強度の式を求めることは困難を極めた。

原子構造も未知だった時代でもあり、何をどうすれば良いのかわからないまま、取って付けたような仮定を置いては、根拠のはっきりしない計算をするだけで精一杯だったのだ。

こうした試みを繰り返していた物理学者の一人がウィーンである。

ウィーンは、少し風変わりな発想をする学者だった。

彼の優れた業績の1つに、
黒体放射における「ウィーンの変位則」の発見(1893年)がある。

ウィーンの変位則とは、
強度が最大になる波長とそのときの温度の関係を簡単な式で表した法則で、
今なおそのままの形で通用する。

この変位則を導くにあたって、
ウィーンは、
反射材で作られたシリンダー内部に電磁波を閉じ込め、
電磁波をまるで気体のように扱う、
奇妙な装置を使った思考実験を考えた。

(※詳細はおすすめ書籍2冊目を参照されたし。悪しからず。)

1896年、ウィーンはさらにトリッキーな議論で、黒体放射の強度分布を求めようとした。

今度は、容器の中に気体と電磁波を閉じ込めることを考え、気体分子が一種の黒体として電磁波を放出・吸収していると仮定した。ここまでは、まぁ良いだろう。

しかし、ウィーンは、強度分布を計算するために、「ある分子が放出する電磁波の波長と強度は、その分子が持つ速度だけで決まる」という仮定を付け加えたのである。

現在の知識によれば、分子がどのような電磁波を放出するかは、分子内部にある電子のエネルギー状態に依存しており、分子自身が持つ速度と直接の関係はない。

したがって、この仮定は全くの誤りである。

より保守的な論法で黒体放射の問題に取り組んでいたレイリー卿(ジョン・ウィリアム・ストラット 1842~1919)は、1900年の論文で、「(ウィーンの議論は)理論的な観点から見ると、単なる推測以上のものではないように思える」と手厳しく批判した。

にもかかわらず、ウィーンが導いた強度分布の式(ウィーン分布)は、なぜか測定データと良い精度で一致していたのである。

ウィーン自身がどこまで自覚していたか定かではないが、
電磁波の波長と強度が分子速度の関数になるという、
誤った仮定を置いた結果として、
放射の強度分布は、
気体分子運動論におけるマクスウェル分布の式と良く似たものになっていた。

細かな点を無視すると、
両者の違いはだた一箇所、
気体分子の運動エネルギーの代わりに、
放射の振動数νに比例する項が現れていたことである。
(後に採用される記法を使えば『hν』)

ここで、
電磁波の振動数とは、
電場や磁場が1秒間に振動する回数のことで、
波長と振動数は、
波長 × 振動数 = 光速
という関係式で結ばれている。

放射の強度分布が気体分子運動論の式と良く似ていたという事実こそ、
アインシュタインに光量子論を思いつかせる直接のきっかけとなったものである。

誤った仮定が偉大な発見への道を拓いたとは、何とも皮肉なことだが、試行錯誤だけが前進のための手段となる最先端科学の世界ではよくある話だ。

ラウエの言葉を借りれば、「彼(ウィーン)が我々を量子論の入り口まで導いた」のである。

幾分か僥倖めいたところもあるが、黒体放射についての一連の業績が認められて、ウィーンは1911年にノーベル物理学賞を受賞する。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

……

………6年目突入の節目である今月に存分に綴っていくと前回豪語しておいて、まさかここで引きとは誰が予想しえただろうか(笑)

量子論の黎明(光だけに…っておいコラ)についてなので、まだまだ語らせていただきたい。

次はプランクによる三段跳びのステップ。乞うご期待!!

待ち遠しいと思ったら、おすすめ書籍を先んじて一読して、「量子の海」へ漕ぎだそう。

目指せ!!量子論の隣人(笑)!!これぞ賢者への道程!!

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