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量子力学の原点にして転換点を振り返る ~光量子仮説③ プランクの量子仮説~

量子論
ロスヴィータは岸に向かって泳ぎ始めたが、
イータはまだ追いかけなかった。
「あんなに長く潜っていたけれど、
波に囲まれて気持ちよかった?
あなたの方程式のようだった?」

シュレディンガーは彼女を見つめ、
それから岸に向かって泳ぎながらゆっくりと微笑んだ。

ふたたびビーチに戻ってロスヴィータのそばに座ると、
イータは言った。
「世界が波でできているっている理論、
私は好きだな」

「面白いのはね、
ハイゼンベルグというドイツ人が、
僕の友人のマックス・ボルンの助けを借りて
僕よりも半年前に別の理論を考えついたんだけど、
その理論によると、
原子の内部には空間も時間もないというのさ」

そう言うとシュレディンガーは首を振った。

「僕にはどういう意味かわからなくてね。
僕にとってはきわめて難解な超越代数…
僕たちがここでやってる数学よりはるかに難しい!
…なるものを使っているうえに、
まったく『直観』がきかないものだから、
その理論に躊躇、
むしろ拒絶反応に近いものを感じるね」

『直観』…
心の目で思い描ける自然な物理学的思考は、
彼の理論でもお気に入りの考えで、
文句なしにハイゼンベルグをしのぐと考えていた領域であった。
一方のハイゼンベルグは、
シュレディンガーは勝手にすればいいと思っていた。

「シュレディンガーの理論の物理的な部分を考えれば考えるほど、
言語道断に思えてくる」

同じ1926年6月に、
彼はパウリに宛ててこう書いているのだった。

二人にはおなじみのボーアの穏やかな言い方をまねて、
「シュレディンガーが『直観』について書いていることは
『おそらくはあまり正しくはない』、
つまり、
僕が思うに…くだらない」

そのうえで、
シュレディンガー理論の『最大の業績』は、
ハイゼンベルグ自身の理論の
数学が難解すぎる部分を拡張するのに使える点だと不機嫌そうに言い切った。
「けれども」と、
シュレディンガーは砂の上に肘をついて細い体を支えて続けた。

「彼の理論と僕の理論をあれこれ考えているうちに、
どちらも数学的には等しいものだとわかったんだ」

彼の顔には、
それを発見したときの驚きの表情が浮かんでいた。

ハイゼンベルグの量子力学とシュレディンガーの波動力学は、
同じことを2通りに記述していたのである。

(おすすめ書籍1冊目 第10章『観測可能なもの』より抜粋)

さてさて、いきなり量子論(量子力学)のレジェンド2人によるバチバチしたやり取りで始まって、なんのこっちゃと怪訝に思われる方もいるだろう。

このシリーズも三記事目になったということで、ここで軽くおさらいしておこう。

去年ではあるが、2025年は量子力学の誕生から100周年ということで、国連総会がこれを記念して、ユネスコの「国際量子科学技術年(International Year of Quantum Science and Technology)」と定めている。

その理由として、この年にドイツの物理学者ウェルナー・ハイゼンベルグが量子力学の基礎となる「行列力学」を発表したからだ。

また、翌1926年にはオーストリア出身の物理学者エルヴィン・シュレディンガーが、ハイゼンベルクとは違うアプローチで、「波動力学(シュレディンガー方程式)」を提唱した。

冒頭のやり取りにもあるように、シュレディンガーによる波動力学とハイゼンベルクらによる行列力学の同等性が同年に証明され、両者を統合した「量子力学」が完成した。

あくまで「粒子の量子力学」ではあるが、「完成」の方の100周年の節目で、量子論の原点である「光量子仮説(光量子論)」について振り返っていこう、というのが本シリーズ↓である。

量子力学の原点にして頂点(?)を振り返る ~光量子仮説~
「1年前、プラハにいたアインシュタインを訪ねたときのことだ。アインシュタイン、君が話せよ。」「僕の研究室からは公園が見...
量子力学の原点にして問題点(?)を振り返る ~光量子仮説② ウィーンの怪しげな仮定~
「元気にやっているようで何よりです」とアインシュタインが言った。ボーアは、微笑みながら首を振った。「科学的観点...

今回は、プランクによる、光量子仮説に至る三段跳びのステップ部。

参考書籍は引き続き↓。どちらも、銀英伝のような、数多くの英雄たちによる攻防を記しており、歴史小説としても楽しめる。

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ウィーン分布の改良 ~プランク~

ウィーン分布(前回記事を参照されたし)は、
当時の測定データと見事に一致していたが、
ウィーンの怪しげな議論に満足できない物理学者たちは、
なぜデータと一致するかをきちんと説明できる理論を模索していた。

そうした中でプランクは、
ある熱力学的な量Rが、
放射を行う物質内部のエネルギーUに反比例する(R∝1/U)と仮定すれば、
そこからウィーン分布が導けることに気がついた。

彼は、
この仮定が黒体放射理論の基礎となるべき式だと信じた。

ところが1899年に入ると、
それまでより遥かに高温(2000℃以上)
かつ低振動数(波長が0.01mm以上の遠赤外線領域)での計測が
ドイツ物理工学研究所で行われ、
ウィーン分布からのずれが見られるとの報告がなされた。

これを知ったプランクは、
新しい分布法則を見つけるべく研究に着手する。

(おすすめ書籍2冊目 第1章より抜粋)

すでに述べたように、R∝1/Uと置くとウィーン分布が導かれる。

ところが物理工学研での測定データによると、Uの値が大きいところで、RはUではなくUに反比例するように見えた。

そこでプランクは、さしたる根拠がないにもかかわらず、R∝1/U(1+αU)と置いてみた。

この場合、αUがゼロに近く、1+αU≒1と置ける領域では、RはUにほぼ反比例する。

一方、αUが1より大きくなって、1+αU≒αUとなるときには、RはU2にほぼ反比例する。

この式を仮定したときに強度分布がどうなるかを計算してみたところ、驚くべきことに、振動数の全領域でデータとピタリと合う式が導かれた

これが「プランク分布」である。

彼は、1900年10月の物理学会の際、予定になかった飛び入り講演で、この「ウィーン分布の改良」について発表した。

何人かの出席者は、プランクの講演が終わると直ちに計算に取りかかり、測定値と完全に一致していることを確認した。

プランクの量子仮説

プランクは、
ベルリン大学でヘルムホルツやキルヒホッフに師事し、
1892年には同大学の物理学教授となり、
後年にはドイツ物理学会会長を務めた。

ドイツ理論物理学の伝統を担う立場にあったプランクは、
「新しく見つけた分布法則は、
なぜだかわからないが測定値と一致する」
と言って済ませることができなかった。

なぜこのような分布が実現されるのかを、
真摯に理解しようとしたのである。

ノーベル賞講演での表現によれば、
分布法則を発見してから、
さらに「数週間にわたって生涯で最もハードな仕事」を続けることになる。

そして、遂に
「暗黒に光が射し込み、
それまで想像もつかなかった新しい展望が目の前に開けてきた」
という。

この分布法則が、
ある大胆な仮説から導けることに気がついたのだ。

その仮説とは、
次のようなものである。

プランクは、黒体内部で電磁波を放出・吸収しているのは、電子やイオンで構成された振動子だと推測した。

バネにおもりを取り付けると、バネの強さとおもりの質量によって決まる固有の振動数で振動するが、それと同じように、電子やイオンから成る振動子も、ある固有振動数で振動するだろう。

無数の振動子が持つエネルギーを全て併せた中で、何%のエネルギーが固有振動数νの振動子のグループに割り当てられるかは、ボルツマンが開発した統計力学を使って計算することができる。

ところが、従来の方法に基いて振動子のエネルギーを計算しても、プランク分布と一致する結果は得られない。

プランク分布と一致させるためには、振動子の持つエネルギーが、ある「エネルギー要素」の整数倍でなければならないのである。

このエネルギー要素を表わすために、プランクは、後に「プランク定数」と呼ばれる、定数hを導入した。

固有振動数νの振動子は、エネルギー要素hνの整数倍、すなわち、hν, 2hν, 3hν…といったとびとびのエネルギーでしか振動できないというのだ。

これがプランクの仮説である。

この仮説は、
それまでの物理学の常識から外れたものだった。

というのも、
ニュートン力学やマクスウェル電磁気学においても、
粒子の位置や場の強度のような量は連続的に変化させられる。

例えば、
通常のバネに取り付けられたおもりならば、
おもりを引っ張って手を放す位置を調整しさせすれば、
どんなエネルギーで振動させることも可能なはずである。

ところが、
プランクによれば、
物質内部の振動子はそうではなく、
なぜか振動の仕方が制限され、
hνの整数倍のエネルギーしか持てないという。

このように、
物理量がとびとびの値に限られることは、
『量子化』と呼ばれる。

プランクが提案したのは、
史上初の量子化に関する仮説…『量子仮説』だった。

物理学の理論に、
非連続的な量を導入したこと…
これが、
19世紀から20世紀への決定的な転換点になったのだ。

量子化という振る舞いが顕著になるのは、プランク定数hによって特徴づけられるミクロの世界である。

人間のスケールからすると、hの値(6.626×10-34J・s)は途轍もなく小さい。

可視光線の場合、hνの値は、豆電球が1秒間に消費するエネルギーの1000京分の1程度にすぎないので、エネルギーがhνの整数倍になるという量子化の効果が実感されることはない。

しかし、原子の世界において、hの値は決して小さくない。

原子レベルの現象は、hの大きさが無視できない結果として、日常的な世界とは隔絶したものとなっている。

量子力学の誕生日

定数hの導入という
画期的な業績を成し遂げたプランクだったが、
実は、
ある本質的な点を見誤っていた。

hνの整数倍のエネルギーでしか振動できないのは、
彼が考えたような電子やイオンから成る振動子ではなかったのである。

何がとびとびのエネルギーで振動しているかが明らかにされるには、
アインシュタインの登場を待たなければならない。

ともあれプランクは、
20世紀が目前に迫った1900年12月14日の学会講演で、
いわゆる量子仮説を発表した。

この日付を量子論の誕生日とする科学史家も多い。

もし科学の世界に幸運の女神がいるとすれば、彼女は、間違いなくプランクに微笑みかけていたはずだ。

プランク分布の式を見いだしたのも、この式を量子化に結びつけたのも、論理的な思索の所産というよりは、思いつきがうまくいった結果だという感が強い。

量子仮説は内容がいささか突飛だったということもあって受容が遅れたが、最終的には「量子論の父」と呼ばれ、1918年にノーベル物理学賞を受賞したのだから、幸運の女神はよほどプランクが気に入ったようだ。

しかし、
幸運だったのは研究の分野に限られていた。

プランクに後半生は、
皮肉な表現だが、
悲運の『連続』だった。

最初の結婚で4人の子どもに恵まれるが、
息子の一人は第一次世界大戦で若くして戦死し、
それから2年のうちに、
双子の娘が嫁ぎ先での出産に際に相次いで亡くなる。

残った息子も、
ナチス政権下、
ヒトラー暗殺計画に荷担した罪で
ゲシュタポで虐殺された。

プランク自身は、
第二次世界大戦中も『全ドイツの知の中心』たるベルリンに留まっていたが、
空襲で自宅は破壊され、
アインシュタインからの書簡を含む多くの貴重な記録類が灰燼に帰した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

……

………毎度恒例、ここで次の記事への引き(笑)

次こそ本シリーズの最終回として、最大分量の記事を投稿予定なので悪しからず。

最後に、次回でシリーズのラストを締めくくるアインシュタインの、冒頭のハイゼンベルグとシュレディンガーによるやり取りへの反応を本記事に添えよう。

藪から棒にシュレディンガーが
行列の計算結果を波動方程式で再現したと聞いたアインシュタインは、
「また訳のわからないことを!」
と叫んだ。

「今まで正確な量子論など
一つもなかったのに、
いきなり二つも理論が登場した。

両者が相容れないことに、
異論を挟む者などいないだろう。

どちらの理論が正しいのか?

おそらくどちらでもないはずだ」

(おすすめ書籍1冊目 第9章『静養地のシュレーディンガー』より抜粋)

アインシュタインの登場が待ち遠しいと思ったら、おすすめ書籍を一読して、「量子の海」へ漕ぎだそう。

目指せ!!量子論の隣人(笑)!!これぞ賢者への道程!!

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