ゾンマーフェルトは興奮のあまり、
友であるラウエのことは一瞬忘れ、
夢中になってアインシュタインに向き直った。
「この実験(コンプトン散乱によってX線の波長が長くなる現象)によって、
X線の波動説は正しいと言えなくなるな」
だがアインシュタインは
「どうでしょう、
そう結論づけるのは早いように思われます」
と笑みを浮かべて反論した。
「あたりまえでしょう!」
とボーアは急に声を上げたが、
その声色はわずかに緊張を含んでいた。
「僕が心配なのはおわかりでしょう
光の波動説を信条とする僕のような者にとってはね。
光量子仮説が光の伝播の問題を十分に解決したと考えられないのは明らかです。
周波数を合理的に定義する可能性を原則として排除しています。
周波数は干渉実験で定義されますが、
その実験は光が波でできているから可能なんです」
「これ以上ないほど根本的で、
新しい洞察がついに得られるかもしれない。
だから僕はこの事実を、
ボーア、
君に知ってもらいたいのだ」
と現実的なゾンマーフェルトは言った。
「まあそうですね」
とボーアは言う。
「でも僕は、
そこに光量子が関係しているとはとても想像できないのです。
いいですか、
仮にアインシュタインが光量子の存在の確固たる証拠を見つけて
電報で僕に知らせたいとします。
そのとき電報は、
電波が存在し、
実在するからこそ僕のもとに届くのです」
アインシュタインの笑い声が響いた。
特許庁時代からプリンストン高等研究所時代にいたるまで、
彼は生涯にわたって当初は誰も信じなかった考えを前提にし続けた。
物理学者の一致した意見が最終的に自分の考えに近いときもあれば、
そうでないときもあった。
ゾンマーフェルトが新たな発見に熱狂しても、
ボーアが不信を露にしても、
アインシュタインは変わらずおだやかであった。
(おすすめ書籍1冊目 第5章『市電に乗って』より抜粋)
さてさてさて、量子力学の黎明ともいえる光量子論(光量子仮説)を取り上げた当シリーズ↓もついにラスト。アインシュタインによる三段跳びのジャンプを残すのみとなった。



シリーズを通しての主たる参考書は↓。改めて名著であるなぁと感じる今日この頃。
それでは、アインシュタインによる光量子仮説の展開、そして「粒子の量子力学」へと繋がる伝説(大げさ)をお楽しみあれ♪
アインシュタインのエウレカ
プランクが提案した分布則(前回記事を参照されたし)は、
黒体放射の振舞いを完全に再現するものだったが、
プランク自身は、
自分が発見した式の意味を正しく理解することはできなかった。
プランク分布の意味を明らかにするためには、
正統派のレールから逸脱したアインシュタインによる
巨大なジャンプが必要だった。
1905年にアインシュタインが光量子論を提唱した論文のタイトルは、
「光の発生と変換に関する発見法的な観点」となっている。
ここで、
「発見法的」と訳したheuristischという言葉は、
演繹や帰納に基づく厳密な論理的思考ではなく、
類推や直観を頼りに問題解決の道筋を発見していくやり方を指すが、
もともとは、
アルキメデスが「アルキメデスの原理」を発見したときに叫んだと言われる
「見つけた」という意味の古代ギリシャ語「エウレカ」に由来する。
アインシュタインも、
光量子論のアイデアを思いついた時、
アルキメデスと同じように叫んだかもしれない。
(おすすめ書籍2冊目 第1章より抜粋)
興味深いことに、アインシュタインは、光量子論に至る発想の大部分を、プランクではなくウィーンに負っていた。
ウィーンは電磁波を気体のようにシリンダーに閉じこめて圧縮するという思考実験を考案したが、アインシュタインはこうした思考実験に熱力学の式を適用する方法を模索していた。
その最中に、電磁波の熱力学的な振舞いが気体と良く似ていることに気がついたのである。
これが彼の『エウレカ』である。
気体は、まるで空間を隙間なく満たす連続体のように見えるが、気体分子運動論の計算結果が測定データと一致することから、自由に飛び回る分子の集まりであることが実証できる。
同じように、電磁波の場合も、多くの観察が波であることを裏付けてはいるが、熱力学的に粒子の集まりのような振舞いを示すならば、その結果を重視すべきではないのか
アインシュタインは、物理学の諸分野の中で、熱力学の原理に最大の信頼を置いていた。
彼は、自分の直観を信じて、電磁波が自由に飛び回る粒子のようなエネルギーの塊から成り立っていると結論したのである。
もっとも、
光量子仮説の論文は、
他の物理学者に理解してもらおうという気配りに欠けていた。
自身の『エウレカ体験』があまりに強烈だったせいか、
アインシュタインは、
発見に至るまでの思考の道筋をそのまま論文に書き記している。
このため、
すでにプランク分布に取って代わられたはずの
ウィーン分布に関する熱力学的な議論が、
何ページにもわたって続けられることになった。
この論文を読んだ物理学者たちがいかにも鼻白んだであろうことは、
想像に難くない。
光量子論が学会でなかなか受け容れられなかったのも、
致し方なかろう。
光量子論
アインシュタインの主張によれば、振動数νの電磁波は、マクスウェル電磁気学で表されるような滑らかな振動ではなく、孤立したエネルギーの塊(エネルギー量子)が数多く集まった集団のように振舞う。
それぞれのエネルギー量子の大きさは、プランク定数hを使うとhνでと表される。
要素的なエネルギーがhνになるという点で、
プランクとアインシュタインの理論は共通しているが、
その内容は決定的と言って良いほど異なっている。
プランクが、
エネルギー要素の担い手として物質内部の振動子を想定していたのに対して、
アインシュタインは、
電磁波自体がエネルギーの塊になると考えたのである。
プランクの議論は、
かなり保守的な面を持っている。
当時は、
原子の構造が全くわかっていなかったので、
エネルギーがとびとびの値になると言う不思議な振舞いの原因を、
いまだ未知なる原子の性質に押しつけていたからだ。
彼は、
電磁波によって振動子がどのように共振するかをいろいろと考察しているが、
その際に、
電磁波そのものがマクスウェル方程式に従う滑らかな波であることを、
全く疑っていない。
これに対して、
アインシュタインは、
すでに確立されたと思われていたマクスウェル電磁気学そのものが
不完全であると喝破した。
物資内部の振動子が熱で振動すると、
それが周囲の電磁場に伝わり滑らかな波動となって拡がっていく……のではなく、
なぜかhνのエネルギーの塊となってポロポロと飛び出してくるというのだ。
プランクが固執した「粒子的な原子と波動的な場」というわかりやすい二元論が、
ここで崩れ始めたのである。
単に内容が異なっているだけではなく、アインシュタインは、そもそもプランクの量子仮説自体が気に入らなかったようだ。
後に「当時、プランクの放射理論は、ある点で私の研究と対立するように思われた」と書いているように、自分の光量子論はプランクの仮説とは全くの別物だと考えていた節がある。
エネルギーの要素がhνになることを最初に指摘したのはプランクなのに、アインシュタインは1905年の論文でそのことに触れず、まるで自分のオリジナルな仮説であるかのようにエネルギー量子について論じている。
これは、研究者のマナーに著しく反する行為である。
また、プランクが導入したhという定数をあえて使おうとせず、hνの代わりに、高校化学でお馴染みの気体定数Rやアボガドロ定数Nを用いたRβν/Nというやや見苦しい表記を何年も続けていた。(βはウィーン分布に現れる定数)
1906年の論文では、プランクの方が先にエネルギー要素というアイデアを導入したと認めたものの、理論に内部矛盾があることを批判している。
アインシュタインがプランクの量子仮説に対して批判的であったのと同じように、
プランクもまた、
あまりに革新的なアインシュタインの光量子論をなかなか認めなかった。
それでも、
プランクが早くから特殊相対論の重要性に着目し、
ドイツの物理学会で認知されるきっかけを作ったことなどもあって、
実生活で二人は良好な関係を結んでいたようである。
プランクは子どもの頃から卓越したピアノ奏者であり、
アインシュタインも好んでバイオリンを弾いていたが、
あるとき、
プロのチェリストを加えた3人で、
ベートーヴェンのピアノ三重奏曲を演奏していたという。
生真面目なプランクと奔放なアインシュタインがどんなハーモニーを奏でたのか、
いささか気になるところである。
光量子論の登場により、物理学会の一大革命となる量子論の幕が切って落とされた。
当初は見向きもされなかった光量子論だが、1916年、ロバート・ミリカン(1868~1953)による光電効果の精密測定でアインシュタインが予測した通りの結果が得られてから、急速に受け容れられるようになる。
アインシュタインは、有名な相対論ではなく、まさにこの光量子論の業績で、1921年のノーベル物理学賞を受賞する。
量子という言葉
光量子論に関するアインシュタインの論文は、
「量子(Quant、英語ではquantum)」という言葉が
現在の意味で使われた最初のケースでもある。
アインシュタイン以前、
Quantというドイツ語は単に「量」という意味で用いられていた。
例えば、
プランクの論文にElementarquantという語が登場することがあるが、
これは、
電子の電荷や水素原子の質量のような「基本的な物理量」の意味で使われており、
いわゆる量子とは関係ない。
プランクは、
量子仮説の論文でhνをエネルギーの「要素(Element)」と記しており、
Quantは使っていない。
1905年論文の前半で、アインシュタインは「エネルギー量(Energiequant)」という少し曖昧な表現で、粒子のように振舞うエネルギーの塊を表した。
論文の後半になると、このエネルギーの塊が光の実体だというニュアンスを込めて、「光量子(Lichtquant、英語ではLight quantum)」という語も登場する。
こうした言い回しを他の物理学者も踏襲するようになり、しだいに物理学用語として定着したのである。
この意味でのQuantを日本語で「量子」(粒子のように1つのまとまりになる量というイメージ)としたのは、なるほど名訳である。
量子とは、
古典物理学では連続的な値になるはずの量が
離散的な(とびとびの)値になったものを指す。
このとき、
あたかも量子であることの身分証明であるかのように、
必ずプランク定数hが現れる。
hがゼロでないことが、
物理量が離散的になるために必要である。
量子は、
必ずしも粒子的なものとは限らない。
光量子論発表から数年後の1913年に提案されたボーアの原子模型では、
角運動量と呼ばれる回転の勢いを表す量が離散的になる。
物理量が離散的になることは、
一般に「量子化」と呼ばれる。
(例:エネルギーが量子化する)
さらに、
1920年代以降は、
量子論的な現象を扱えるように理論の定義を変えることも
「量子化」といわれるようになった。
(例:場の理論を量子化する)
粒子性の解釈
アインシュタインの1905年論文には、光量子を仮定すると、3つの現象(光ルミネセンス, 光電効果, 光電離)の特性が簡単に説明できることが示されていた。
特に、光電効果の説明は印象的である。
光電効果とは、
紫外線を金属などの固体に照射したときに、
電子が飛び出してくる現象である。
この現象には、
いくつかの不思議な点があった。
例えば、
振動数がある値以下になると、
どんなに振幅の大きい電磁波を照射しても電子が飛び出さない点である。
金属内部にある電子は、
ちょうど涸れ井戸の底にある石のようなもので、
一定量以上のエネルギーを与えることにより、
外部に飛び出させることができる。
振動数が小さくても、
振幅の大きな電磁波で強く揺さぶれば、
外に飛び出してきそうなものなのに、
そうならないのである。
アインシュタインは、電磁波が電子にエネルギーを与える際に、1個の光量子がそのエネルギーhνを丸ごと電子に与えると仮定することによって、この謎を説明した。
振動数νが大きな値で、hνが電子を外部に放り出すのに充分ならば、光電効果が起きる。
しかし、hνがそれほど大きくない低振動数の電磁波では、電子は放出できない。
電磁波の振幅を大きくしても、飛来する光量子の個数が増えるだけで、個々の光量子のエネルギーは同じままである。
したがって、光電効果を起こせないほど低振動数の電磁波では、振幅をいくら大きくしても、次から次へとやってくる光量子が電子に小さなエネルギーを与えるにすぎない。
ちょうど、井戸の底でピョンピョンと小さく跳ねているだけのようなもので、電子は外に飛び出せないのである。
光電効果の説明があまりにも鮮やかだったために、
光量子と言えば
電子を弾き出す粒子のようなものというイメージが定着してしまったが、
これは誤解の元である。
光量子は1個ずつ独立にエネルギーの受け渡しを行うという仮定が通用するのは、
光電効果を含むいくつかのケースに限られており、
多くの電磁気的な現象では、
光量子の個数を特定することすらできない。
電磁波を粒子の集まりであるかのように素朴にイメージすることの限界は、
1909年にアインシュタイン自身が明らかにした。
黒体放射で満たされた容器内部の小さな領域を考えると、
そこでの電磁波のエネルギーは、
一定ではなくフラフラとゆらいでる。
このゆらぎが、
エネルギーhνを持つ粒子がバラバラに飛んでくる場合と、
マクスウェル方程式に従う滑らかな波動がゆらいでいる場合の和になることを
示したのである。
つまり、
電磁波は、
純粋な粒子でも純粋な波動でもなく、
その両方の性質が混じった何かだということになる。
こうした不可解な性質を持つ電磁場とは、そもそも何なのか?
アインシュタインは、専門家でもない人に向けた講演で、1つのアイデアを述べている。
それによると、電磁場の真の方程式はマクスウェル方程式よりも遥かに複雑なもので、これを使えば、離散的なエネルギーの塊となる光量子を扱うことができる。
マクスウェルの電磁気学は、光量子に比べて大きな範囲で電磁場を平均したときの近似的な理論にすぎないというものだ。
アインシュタインのこのアイデアは、
あまりにも素朴すぎる。
自然は、
彼が想像したよりも奥深く、
電磁場の真の方程式を解くだけで光量子が導けるというほど単純ではなかった。
しかし、
光の粒子という実体が存在するのではなく、
未だ知られていない複雑なプロセスを通じて光量子が生み出させるという直観は、
誤っていなかった。
アインシュタインは、
光量子論を提唱した後も、
しばらくは量子論の研究を続ける。
1907年には低温での固体の比熱の振舞いを解明する「アインシュタイン模型」を、
1916年にはレーザーの原理となる誘導放出の理論を発表し、
この分野の第一人者であることを見せつけた。
しかし、
その後は、
一般相対論や統一場理論に関心が移ったせいもあって、
1924~25年の理想気体の量子論を最後に大きな貢献はなくなり、
むしろ、
学問の進歩に取り残されていく。
アインシュタインの光量子論は、量子というアイデアを軸に、粒子(原子)と波動(場)の二元論を統一する方向に人々を導くはずのものだったが、そのことに理解を示す物理学者はなかなか現れなかった。
光の理論として始まった量子論は、しばらくは光の問題を脇に置いたまま電子の理論として研究が進み、1926年にまず電子についての量子力学として一応の完成を見ることになる。
光量子論のブレイクスルーは、1920年代後半におけるヨルダンやディラックの研究まで待たねばならない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
量子論の研究対象が電子に絞られるきっかけとなったのが、
1913年に提案されたボーアの原子模型である。
それ以前には、
アインシュタインの光量子論はもちろんのこと、
プランクの量子仮説もあまり信用されていなかったが、
ボーアの登場によって、
量子に基づく考え方がミクロの世界を理解する上で
不可欠だという認識が広まることになる。
(おすすめ書籍2冊目 第2章より抜粋)
さて、光量子論を巡る今回のシリーズはここでいったん筆を置こうと思う。
「量子とともに生きる」が信条のブログ主にとって、なんとも充実した振り返りとなった♪
改めて、過去から現在にかけて「量子とともに生きた」英雄(大げさ)に敬意を示したい。
以降のボーアらによる「粒子の量子力学」の発展と、「場の量子力学」への進化、「標準理論」の完成ついては、またおすすめ書籍や各参考書を読まれたし。
目指せ!!量子論の隣人(笑)!!これぞ賢者への道程!!

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